通りすがりの編集者ですが、ちょっと校正してもいいですか?

2024/08/12

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2020/08/10

不自然な言葉の組み合わせが気になる

言葉には、適した組み合わせというものがあります。
ところがときどき、言葉の組み合わせ方が不自然な文をみかけることがあります。短い文ではあまりないのですが、少し長めの文になると、文の途中で適切な組み合わせを見失ってしまうのか、「その主語に、その述語は違うんじゃない?」などと違和感をもってしまうものに出合います。
たとえば次の文などは、非常に強い違和感があります。


その背景には、生真面目すぎても伝わらない、でも軽いだけでは伝わらない…というバランスを見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”としての発言力を持っていることは間違いない。

(「チャラ軽いのに重い? EXIT・兼近、“本当に刺さる”コメント力」2020-06-02 オリコン ORICON NEWS)


一見、それほど複雑には見えない文ですが、分析的に構造を見ると、思ったよりも複雑です。
というのも、文の基本構成は「主語+述語」ですが、この文の主語は、「主語+述語」の組み合わせを含むブロックとなっているからです。
つまり、「主語ブロック(主語+述語を含む)+述語」という構造になっています。

この文全体の主語となっているのは、


その背景には、生真面目すぎても伝わらない、でも軽いだけでは伝わらない…というバランスを見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”としての発言力を持っていること


です。「その~こと」(主語ブロック)は、「間違いない」(述語)というかたちです。
この大枠の部分については、特に気になるところはありません。問題は、主語ブロック内にある「主語+述語」の組み合わせです。

主語ブロック内における主語は「その背景には」ですね。では、「その背景には」に対応する述語はどれかというと、「持っている」の部分です。ちなみに、「生真面目すぎて~言葉”としての」の部分は、そのあとに続く「発言力を」の内容を説明したものです。
つまり、この主語ブロックは「主語+目的語+述語」という構造になっています。

文の基本構成は「主語+述語」ですから、このブロックの主語である「その背景には」と、述語である「持っている」を組み合わせてみます。

(1)その背景には~(発言力を)持っている

どうでしょうか。違和感ありまくりです。

「背景」とは、物事の背後にある事情や理由などのことです。つまり、「背景には」という主語に対応する述語は、「(このような事情や理由などが)ある」というかたちになっていると自然に感じます。
ところが(1)の組み合わせは、そういうかたちにはなっていないため、違和感があるのです。

そこで、違和感がなくなるように、元の文に少し手を加えて、主語ブロックの述語のあたりを書き換えてみます。


その背景には、生真面目すぎても伝わらない、でも軽いだけでは伝わらない…というバランスを見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”としての発言力がある


元の文では「発言力を持っている」となっていた部分を、「発言力がある」に書き換えてみました。こうすれば、

(2)その背景には~(発言力が)ある

というかたちになり、主語と述語の組み合わせにおいては違和感がなくなります。

しかし、違和感が残る場所はほかにもあります。それは、「発言力」の内容を説明する部分です。
説明部分の前半を見てみましょう。


生真面目すぎても伝わらない、でも軽いだけでは伝わらない…というバランスを見極め、


まず気になるのは、「生真面目すぎても」のあとに「軽いだけでは」という表現があることです。
「生真面目すぎて」と「軽いだけ」の順番はどちらが先でもよいのですが、「も」と「は」の順番は、この並び順では不自然です。

「も」という助詞は、たとえばAというものがあり、それとは別にBというものが並列的に、あるいは付け加えるものとしてあるような場合に使います。
使い方としては、「ここにリンゴがある。バナナもある」とか「この世には神はいないし、悪魔もいない」というように、複数あるもののうちの2つめ以降に出てくるものにつけるのが標準的です。
あるいは、対象となるものが複数あることを最初から示唆することを目的に、「~も、~も」というかたちで使うこともあります。「ここにリンゴもある。バナナもある」「この世には神もいないし、悪魔もいない」というかたちです。

しかし、最初に出てくるものに「も」をつけ、あとに出てくるものに「は」や「が」といった助詞をつけることはありません。
たとえば先の例文を、使う助詞の順番を逆にして、「ここにリンゴもある。バナナがある」「この世には神もいないし、悪魔はいない」としたら、日本語として非常に不自然になります。
ところが元の文は「生真面目すぎても~、軽いだけでは~」という助詞の使い方をしています。そのため、不自然さを感じるのです。

そこで、助詞を書き換えます。


生真面目すぎては伝わらない、でも軽いだけでも伝わらない…というバランスを見極め

生真面目すぎても伝わらない、でも軽いだけでも伝わらない…というバランスを見極め


こうすると、「も」の使い方の違和感は解消されます。
しかし、まだ、なにかもやもやとしたものが残ります。
その原因は、「でも」という逆接の接続詞を使って対比させている言葉が、実は対比になっていないからです。

この部分では、「生真面目すぎ」と「軽いだけ」という言葉を逆接の接続詞「でも」で対比させています。どちらも「伝わらない」の理由となるが、その方向性が逆であるということを示し、そのあとに続く「バランスを見極め」につなげるという文の構成です。
しかし、「生真面目」と「軽い」は対比になっていると言えますが、「~すぎ」と「~だけ」は対比と言えるでしょうか。

「~すぎ」という表現は、あるものについての性質や数値などの程度が、そのものの標準や平均値、期待値などと比べて、かけ離れているときに使います。「そのリンゴは(標準的なリンゴに比べて)大きすぎる」とか「彼の血圧は(同年代の健康な男性の平均的な血圧に比べて)低すぎる」というような使い方です。

「~だけ」という表現は、複数ある要素のなかから特定の要素を抽出し、他の要素の存在は考慮しないものとして扱うときに使います。「10人いるメンバーのなかから身長が170㎝以上ある者だけを選んだ」「赤く色づいた苺だけを摘んでね(色のついていないものはそのままにしておいてね)」というような使い方です。

つまり、そのものについてのなんらかの「程度」を示す「~すぎ」と、複数あるなかから「抽出」された要素を示す「~だけ」は、言葉がもつ意味の性質が異なります。そもそもの性質が違うため、「~すぎ」と「~だけ」の組み合わせは、対比や比較になりません。

物事についての対比や比較をするには、対比や比較をする「性質」を同じにする必要があります。
たとえば元の文を「程度」についての対比にするのであれば、次のようになります。


生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない…というバランスを見極め

生真面目すぎても伝わらない、でも軽すぎても伝わらない…というバランスを見極め


あるいは、「抽出」についての対比にするのであれば、次のようになるでしょう。


生真面目なだけでは伝わらない、でも軽いだけでも伝わらない…というバランスを見極め

生真面目なだけでも伝わらない、でも軽いだけでも伝わらない…というバランスを見極め


ここまでで、助詞の「は」「も」の使い方と、対比させる物事についての、組み合わせの不自然さは解消されました。
しかし、この部分には、まだ不自然な部分が残っています。それは、「…というバランスを見極め」の部分です。

言いたいことはわかります。「生真面目」に寄りすぎても、「軽い」に寄りすぎても、「伝わらない」。だから、「生真面目」と「軽い」のあいだにある「伝わる」位置=「生真面目」と「軽い」のバランスがとれる位置を探す、ということです。

そうです。「○○という◇◇」という表現はこのように、「という」の前にある文言「○○」が、「という」のあとにある文言「◇◇」の内容や性質などを説明している場合に使うのが一般的なのです。
念のために書いておくと、「~のバランスがとれる位置を探す、ということです」では、「という」の前にある「~のバランスがとれる位置を探す」が、「という」のあとにある「こと」の内容を説明しています。

ここで再度、文を見てみましょう。


生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない…というバランスを見極め


「バランス」という言葉は、「均衡」「つりあい」「調和」といった意味を表す言葉です。あるいは、「均衡を保つ(保たせる)」「つりあいを取る(つりあわせる)」というように動詞的にも使います。
つまり、「バランスを見極め」とは、方向性の違う複数のものがあり、なんらかの意図や目的などにおいてそれらの「均衡」「つりあい」「調和」がとれる位置をみつけだす、という意味になります。

先にも書いたように、「という」の前には、「という」のあとに書かれる文言の内容や性質などの説明を書きます。
したがって、この文においては、「という」の前には、見極める「バランス」の内容や性質の説明が必要です。「なにとなに」(方向性の違う複数のもの)のバランスを見極めようとしているのか、「なんのため」(なんらかの意図や目的など)のバランスを見極めようとしているのか、ということです。

ところがこの文では、そうした説明が、「という」の前の部分にありません。書かれているのは「~では伝わらない」ということだけで、「なにとなにのバランス」なのか、あるいは「なんのためのバランス」なのかについては、なにも書かれていないのです。

もういちど、要素だけを抜き出してみます。


生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない…というバランス


これ、いったいどんなバランスでしょうか。なんのバランスなのでしょうか。

この部分が伝えたいことは、「伝わるためのバランス」をみつける必要がある、ということのはずです。「生真面目すぎ」「軽すぎ」では伝わらないけれど、「生真面目」と「軽い」を調和させれば、伝わるのではないか。だから、伝わるための「生真面目」と「軽い」の組み合わせ方、つまり、両者の最適な比重=バランスを見極めることが大事、ということです。

「というバランス」という表現を使うのであれば、その前の部分に、ここに書いたような説明が必要です。たとえば、次のような感じになるでしょうか。


生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない、伝わるためには「生真面目」と「軽い」の比重をどうするか…というバランスを見極め


あるいは、そもそも「というバランス」という表現を使わない、という調整のしかたもあるでしょう。


生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない、「生真面目すぎ」と「軽すぎ」のあいだにある「伝わるバランス」を見極め


このふたつを見比べてみると、「というバランス」を使わない調整のしかたのほうが、すっきりしていてよいように私は感じるのですが、いかがでしょうか。

ここまでを元の文に当てはめてみると、次のようになります。


その背景には、生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない、「生真面目すぎ」と「軽すぎ」のあいだにある「伝わるバランス」を見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”としての発言力があることは間違いない。


だいぶよい感じになってきましたが、まだ違和感が残ります。
その原因は、「“軽いけれど重たい言葉”としての発言力」という表現にあります。

「AとしてのB」という表現は、「A」という資格、立場、部類、名目などにおける「B」を表すようなときに使われます。
あるいは、「B」を「A」という名目や部類に含まれるものとして活用したり定義したりするといったかたちで使われることもあります。

では、「“軽いけれど重たい言葉”としての発言力」はどうでしょうか。
「軽いけれど重たい言葉」という資格、立場、部類、名目における「発言力」を表しているでしょうか。
それとも、「発言力」を「軽いけれど重たい言葉」という名目や部類において活用あるいは定義しているのでしょうか。
残念ながら、そのどちらの解釈も難しいと感じます。

「AとしてのB」という表現は、「Aという資格や立場において、Bを実行、実施、実現する」といった具合に書き換えても意味が通じる文になります。たとえば「親としての責任」は、「親という立場において、(誰か、あるいはなにかに対する)責任を果たす」と書き換えても意味が通じます。
あるいは、「AとしてのB」が「Bを、Aという名目や部類に含まれるものとして活用したり定義したりする」といったかたちで使われている場合、たとえば「武器としての思考能力」は、「思考能力を、(誰か、あるいはなにかに対抗するための)武器(という部類)の一種と定義する」というように書き換えても意味が通じます。

しかし「“軽いけれど重たい言葉”としての発言力」は、「“軽いけれど重たい言葉”という立場において、発言力を発揮する」では意味がわかりませんし、「発言力を、“軽いけれど重たい言葉”(という部類)の一種と定義する」も意味がわかりません。

それに、そもそも「発言力」とは、発言によって他の人を動かしたり従わせたりすることができる影響力のことです。「発言力」があるのは発言をする「人」であり、発言された「言葉」そのものではありません。
こうしたことからも、「軽いけれど重たい言葉」と「発言力」とを「としての」で結びつけることには無理があるように思うのです。

では、どのように調整しましょうか。
たとえば「としての発言力」のところを、「として発言する力」と替えてみるとよいかもしれません。


その背景には、生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない、「生真面目すぎ」と「軽すぎ」のあいだにある「伝わるバランス」を見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”として発言する力があることは間違いない。


文としては、まだこなれていないというか、あまり美しい文ではありませんが、日本語の使い方における違和感は、これで解消されたように思います。
もう少し調整するならば、「でも軽すぎても伝わらない」のところの「でも」は不要かもしれません。そのあとに続く文により、あえて「でも」を使って逆接にする必要が薄れているからです。


その背景には、生真面目すぎては伝わらない、軽すぎても伝わらない、「生真面目すぎ」と「軽すぎ」のあいだにある「伝わるバランス」を見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”として発言する力があることは間違いない。


うん、このほうがよさそうですね。

もし、元の文にある「発言力」という表現を活かすのであれば、大幅に文章を変えたほうがよいように思います。
元の文は、「チャラ軽いのに重い? EXIT・兼近、“本当に刺さる”コメント力」というタイトルがつけられた記事の一部で、「発言力がある」とされているのは兼近さんです。その点を加味して、補足を加えつつ調整してみます。


その背景には、兼近のもつ発言力があることは間違いない。生真面目すぎては伝わらないし、軽すぎても伝わらない。だから「生真面目」と「軽い」のバランスを見極め、今の若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”にして伝える。そのバランス感覚に長けているのだ。


こんな感じに調整してみました。いかがでしょうか。
元の文は全体で1つでしたが、そこに書かれている要素は複数ありました。そこで、要素ごとに文を分けてみました。

1つの文で複数の要素を伝えようとすると、どうしても一文が長くなりますし、作文技術の面でも難度が高くなります。それよりも、要素ごとに文を分け、短い文を複数つくるほうが、技術面で簡単になることが多いですし、読み手にとっても理解しやすい文になることが多いのではないかと思います。


 

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2020/02/13

ヴイックスの説明文が、ちょっとなにを言っているのかよくわからない

風邪の治りかけで喉がいがいがして咳をしていたら、知人が「ヴイックス メディケイテッド ドロップ」5個入りのスティックを1つ、くれました。いわゆる「のど飴」などと違い、セチルピリジニウム塩化物水和物という薬剤を配合した指定医薬部外品なので、喉に対する効果も高そうですし、シュガーレスというところも好ましい。

用法としては「のど飴」などと同様に、スティックから「ヴイックス メディケイテッド ドロップ」を取り出して口の中に放り込めばいいのでしょうが、いわばお菓子である「のど飴」とは違い、いちおう指定医薬部外品なので、正しい効果を得るには正しく服用する必要があると思い、スティックに書かれた「用法・用量」を読みました。スティックには「用法・用量」として、次のように書かれていました。


大人(15才以上)及び5才以上の小児1回2個を1日3~6回1個ずつ2個までを口中に含み、かまずにゆっくり溶かして使用してください。2時間以上の間隔をおいて使用してください。※5才未満は使用しないでください。
(2020年2月時点)


う~んと、これ、ちょっとなにを言っているのかよくわからない。
分解しながら読み解いていきましょう。


大人(15才以上)及び5才以上の小児


まず、この時点でちょっと気づいたことがあります。「5才以上の小児」と「大人(15才以上)」という書き方をするということは、15歳未満は「小児」ということになるのですね。なんとなく、「小児」というと小学生(12歳)くらいまでの印象を持っていたのですが、中学生も小児なんだ。

少し調べてみたところ、厚生労働省のウェブサイトに「医療法施行規則第十六条に関する疑義について (昭和三一年五月一日 三一医第三七〇号)(厚生省医務局長あて長野県知事照会)」という文書がありました。1956年に長野県知事が厚生省(当時)医務局長あてに、「医療法施行規則第16条第1項第4号に規定される『小児』とは、具体的に何歳から何歳までを言うのか?」という問い合わせを行っています。

この問い合わせの文章に長野県知事は、参考として、児童福祉法第4条における分類、旅客及び荷物運送規則第9条における分類、さらに栗山博士なる人の学説を掲載しています。
それによると、児童福祉法では、1歳未満を「乳児」、満1歳から小学校に入るまでを「幼児」、小学生から満18歳までを「児童」と呼び、そもそも「小児」という分類はないようです。一方、旅客及び荷物運送規則では、1歳未満を「乳児」、満1歳から6歳未満を「幼児」と呼ぶのは児童福祉法とおおよそ同じですが、こちらには「小児」の区分があり、それは6歳から12歳未満となっています。
さらに、栗山博士なる人の学説では、「小児とは出生から春機発動期(思春期)までをいう。女児では、十四、五歳 男児では十六、七歳までをいう。」のだそうです。男の子のほうが「小児」の期間が長いのは、なんとなく納得できる気がしないでもない。。。

このように「小児」についての定義がいくつかあってよくわからないから、医療法施行規則では何歳から何歳までを「小児」と規定しているのか教えてくれという問い合わせを、当時の長野県知事さんが国に対して行ったわけですね。
それに対する厚生省の回答は次のようなものでした。


医療法施行規則第十六条第一項第四号に規定する「小児」とは通常小児科において診療を受ける者をいうのであって、具体的に何歳から何歳までと限定することは困難である。

(昭和三十一年五月二十一日 医収第一八六〇号)(長野県知事あて厚生省医務局長回答)
https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=00ta0783&dataType=1&pageNo=1


なんてざっくりした回答。「通常小児科において診療を受ける者」ってなんだよ。

では、実際に何歳くらいまで小児科で診療を受けるのか。調べてみると、これもいろいろでした。
日本小児科学会は「成人するまで」を小児科の診療対象としていますが、小児科医の多くは「小児科にかかるのは中学生くらいまで」と考えていて、内科医の多くは「小児科にかかるのは小学生くらいまで」と考えているらしいです。治療をする医者の側がこんな具合だからか、一般の人も自分の子どもは小児科に行くべきか内科に行くべきかで迷うことが少なくないようで、「小児科の受診年齢は何歳までか」といった記事がウェブ上にはたくさんありました。
なお、医療用医薬品の適応においては一般的に15歳未満を「小児」とするようです。

こういうふうに「小児」に対する明確な定義がなく、かつ、治療を施す側も立場によって「小児」の年齢範囲を違うように考えていて、患者側も「小児って、何歳までだよ?」と迷っているような状況において、「ヴイックス メディケイテッド ドロップ」の用法・用量を「大人(15才以上)及び5才以上の小児」とわざわざ分ける必要はあるのでしょうか。単純に「5歳以上1回●個(5歳未満は服用禁止)」でいいのではないかと思うのですが、どうですかね。

さて、ここまででわかったのは、「ヴイックス メディケイテッド ドロップ」を服用できるのは5歳以上の人である、ということです。
問題は、この先です。


1回2個を1日3~6回1個ずつ2個までを口中に含み、かまずにゆっくり溶かして使用してください。2時間以上の間隔をおいて使用してください。


この文章が、いちばんの混乱のもとだと思います。これも分解してみましょう。

まず、「1回2個」を「1日3~6回」、服用するのですね。ということは、1日に合計で6個~12個を服用するわけですね。
ところが、そのすぐあとに「1個ずつ2個までを口中に含み」って、どういうこと? 「1回2個」を服用するんじゃないの? それとも「1個」なの?? 「まで」ってなに???
さらに「2時間以上の間隔をおいて使用」って、1個を服用したら次の1個を服用するまでに2時間待たなくてはいけないの???? それってつまり、最大量の12個を服用するには24時間かかるってこと?????

読んでいて頭がくらくらしてきます。

いったいどういうことかと思って調べたところ、要するに、「いちどに2個を口の中に入れるな」ということのようです。1個を口に入れ、それが溶けたらもう1個を口に入れる。これを1日に3回~6回行うが、次の「回」を開始するまでには2時間以上の間隔をあける、というわけですね。

「ヴイックス メディケイテッド ドロップ」は、口の中で溶かすことで、喉を潤しながらドロップ内に配合された薬効成分を摂取できるようになっています。1回に必要な薬効成分量はドロップ2個で摂取できるようですが、「喉を潤す」という観点から考えると、ドロップがより長い時間、口の中にあるほうが効果的なようです。そのため、いちどに2個を口に入れるのではなく、1個ずつ口の中で溶かしてほしいということのようです。

ここで気になるのが「1個ずつ2個まで」という表現です。

「2個まで」という表現には「3個以上はだめ」という意味があります。調べたところ、最大個数に制限をつけているのは、それ以上を服用すると、消化系の弱い人はおなかをこわす可能性があるからだそうです。その意味で「2個まで」という記載があるわけです。その点については理解できました。

ただ、ここで別の疑問が生じます。「まで」という表現は、最大値しか示さないということです。つまり、「2個まで」という表現は、「2個が許される最大値であり、3個以上を服用してはだめ」ということは示しますが、2個より少なく服用することについては可否を規定していないのです。

もちろん、服用することを前提としたドロップについての文章ですから、0個でもOKということはないでしょう。また、「2個まで」の前には「1個ずつ」という文言もありますから、たとえば1個のドロップを半分に割って0.5個を服用するといったことも除外されると考えてよいでしょう。

こうしたことから、「1個ずつ2個まで」という文章が示す「1回あたりの服用量」は、「1個」もしくは「2個」ということになります。つまり、1回あたりの用量は「1個」でもいいし、「2個」でもいい、という意味になるのです。

あれあれ? これは困りました。
スティックに書かれた「用法・用量」は、その前の部分で「1回2個」と断言しています。なのに、その少しあとに「2個まで」、つまり「1個」でも「2個」でもいいという表記があります。
そして1日の服用回数は「1日3~6回」です。1回の服用量が「2個」で固定であれば、1日の服用量は6個~12個ですが、1回の服用量が「1個」でも「2個」でもいいとなると、1日の服用量は最少3個~最多12個となり、最少個数と最多個数にずいぶんと開きができてしまいます。

1回の服用量は「2個」で固定なのか、それとも「1個」でも「2個」でもいいのか。調べてみたのですが、「規定量より多く服用してはだめ」と書かれている記事はみつかったものの、「規定量より少なく服用してもいい」という記述はみつけられませんでした。そのため正解がわかりませんので、「2個で固定」の場合と「1個でも2個でもいい」場合との両方について、もとの文章を書きなおしてみましょう。


《1回量が2個で固定の場合の用法・用量例》

5歳以上、1回2個を1個ずつ口中に含み、かまずにゆっくり溶かして、1日3~6回使用してください(5歳未満は使用しないでください)。1回使用後は、次の使用までに2時間以上の間隔をおいてください。


《1回量が1個でも2個でもいい場合の用法・用量例》

5歳以上、1回2個までを1個ずつ口中に含み、かまずにゆっくり溶かして、1日3~6回使用してください(5歳未満は使用しないでください)。1回使用後は、次の使用までに2時間以上の間隔をおいてください。


どうでしょうか。スティックにもともと書かれていた「用法・用量」よりも、1回あたりの個数、使用のしかた、使用間隔が、わかりやすくなったのではないでしょうか。文字数ももとの文章とほとんど変わらない(少し短くなりました)ので、スティックの狭いスペースに書き切れないといったこともありません。

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2020/02/11

一文が長すぎることが気になる

私がまだ学生だった昭和の時代には、文章を読点(、)で区切りつつ延々とつなげ、なかなか句点(。)にたどり着かない「長い文」に出合うことは、それほど稀ではなかったように思います。小説などでも、一文が4行や5行に渡るような文章は、それほど珍しくはなかったのではないでしょうか。当時の書籍はいまよりも文字のサイズが小さく、1行の文字数も多かったので、現代の書籍の文字組みにすると、一文が6行とか7行とかになってしまうかもしれません。

しかし最近は、文字数の多い文章自体が好まれないこともあり、句点(。)で区切られた一文の長さも短めであることが主流です。感覚的には、一文が80字程度(四六判サイズの標準的な縦書きの書籍で2行程度)を超えると「長いよ」と感じるのではないでしょうか。

読みやすく、かつ、文法的にも論理的にも破綻やねじれなどがないようにして、長い一文を書くには、書き手にそれなりの執筆技術が必要ですし、たとえそうした一文が書けたとしても、その文を読むには、読み手にもそれなりの読解技術が要求されます。――と書いたこの一文が、ずいぶん長いですね。

特にビジネス系の書籍などの、解説や提案といった内容が主の書籍では、読み手にできるだけ誤解を与えないためにも、文章を簡潔明瞭にすることが求められます。

文章を読点(、)でつなげて一文を長くするよりも、句点(。)で区切って複数の文章に分けたほうが、たいていの場合は、読み手にとって読みやすく、理解しやすくなります。ビジネス系に限らず、最近では小説も、一文が短い傾向にあるようですね。いまは「一文は短く」が主流なのでしょう。

そんななかで、ひさしぶりに「大作」の一文に出合いました。


例としては昭和期の落語評論家の安藤鶴夫があり、安藤は新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥し、一方で古典落語界の権力者である人物はやはり評論で持ち上げ支援し、これにより昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした人物であるが、自身が嫌う落語家に対しては客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなどという嫌がらせにも近い行為を見せ、他方で5代目春風亭柳昇によれば、安藤は売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いしており、また、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が寄席の楽屋では立てられていたという。

ウィキペディア「評論家」最終更新 2019年5月13日 (月) 00:59
https://ja.wikipedia.org/wiki/評論家


すごい。およそ300文字程度が1つの文になっています。
これだけの情報量を、途中で区切ることなく一文で記述するのは、さぞかしたいへんだったでしょうと、その努力には敬服します。しかし、あえて一文でなければならない理由が、自分にはわかりません。


例としては昭和期の落語評論家の安藤鶴夫があり、安藤は新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥し……


ここ、自分なら確実に「落語評論家の安藤鶴夫がある。」でいったん文章を終わらせます。

ただ、元のウィキペディアの記事では、ここに抜き出した文章の前の部分で、ある種の権威を得た評論家が特定の人物や団体を激しく非難することで名を売るケース、および、業界内で実権を持つ特定の人物や団体を持ち上げることでそれらとの関係性を深め、自身の影響力を高めるケースについて言及しています。そして、ここに抜き出した文章は、そうした評論家の一例として安藤氏を出しています。その流れを考慮に入れれば、「安藤鶴夫があり、安藤は……」とつなげたくなる理由も、わからなくはありません。

しかし、その場合でも、「大きな影響力を及ぼした人物であるが、自身が嫌う落語家に対しては……」の部分は読点(、)を句点(。)に換え、文をいったん終わらせたほうがいいと考えます。そのうえで、重複部分のスリム化や読点の位置の調整などの整理すると、次のような感じになるでしょうか。


例としては昭和期の落語評論家の安藤鶴夫があり、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物はやはり評論で持ち上げ支援し、これにより昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。


これでも悪くはありませんが、やはり「安藤鶴夫があり、」でいったん区切ったほうが読みやすいでしょう。


例としては、昭和期の落語評論家の安藤鶴夫がいる。
安藤は、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物はやはり評論で持ち上げ支援し、これにより昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。


さて、このあとに続く「自身が嫌う落語家に……」以降の部分では、安藤氏が行ったことの具体的な説明が、やはり一文で記されています。しかし、この一文のなかには、安藤氏が行ったこととして、次の3つのことが書かれています。

(1)自身が嫌う落語家に対しては客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなどという嫌がらせにも近い行為を見せ、
(2)人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いしており、
(3)落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている

元の文は、ここの構造が少しばかり複雑というか、なかなか気持ちが悪い感じです。

まず、(1)と(2)を「他方で」という接続詞でつなげています。

「他方で」というのは、「Aという流れや物事がある一方で、Aとは別の方向に向かうBという別の流れや物事がある」ような状況のときに使う言葉です。「彼はビジネスシーンでは非常に合理的かつ冷静に振る舞う。他方で、プライベートの彼は義理人情を重視し、喜怒哀楽もわかりやすい」といったような感じでしょうか。

しかし元の文では、(1)の「嫌う落語家に対して嫌がらせ」と(2)の「人気がある落語家を毛嫌い」は、流れとしては同じ方向にあると考えられます。人気がある落語家を毛嫌いし、嫌う落語家に嫌がらせをするわけですから、(1)と(2)は同一線上にあると言えます。

同じ流れの上にあるものどうしを「他方で」でつなげるのは、文法的に非常に気持ちが悪いと感じます。
たとえば、「嫌う落語家に対しては嫌がらせをする。他方で、認める落語に対しては祝儀をはずむ」といったような流れであれば、「他方で」が正しく機能するのですけどね。

元の文をさらにわかりにくくしているのは、(2)の前におかれた「5代目春風亭柳昇によれば」という文言と、(2)と(3)をつなぐ「また、」という接続詞、そして文の最後におかれた「という旨の噂が寄席の楽屋では立てられていたという。」という文言の存在です。

「また、」には、

(a)その前後で文を「別のもの」として「区切る(分ける)」
(b)「また、」の前で書かれたことに、「また、」のあとに書かれる「別のこと」を「つけ加える」

の2種類の役割があります。そして元の文では、この「また、」が(a)(b)のどちらの意味で使われているのかがわかりません。

もし(a)だとすれば、(2)は5代目春風亭柳昇が自分の考えを述べたものであり、(3)は楽屋の噂話として伝わることを5代目春風亭柳昇が伝えたものです(元記事の注釈によれば、少なくとも(3)は5代目春風亭柳昇の著書から引いたもののようですが、(2)も同じ著書からとは断定できません。そのため、ここでは「ソースは別」と考えることにします)。ですから、次のように文を分けられます。


5代目春風亭柳昇によれば、安藤は売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いしていた。
また、安藤は、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が寄席の楽屋では立てられていたという。


もし(b)だとすれば、(2)も(3)も楽屋の噂話であり、そういう噂があると5代目春風亭柳昇が言った、ということになります。加えて、同じ文脈であるならば、「標的」とされる「特定の落語家」は、安藤氏が毛嫌いする「世間からもてはやされる落語家」のなかから選ばれているようにも思えます。そうしたことを明確にするには、次のように書き換えてみるとよさそうです。


5代目春風亭柳昇によれば、安藤は、売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いするだけでなく、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が、寄席の楽屋では立てられていたという。


どちらが正解かは、元の文だけからは読み取ることができません。筆者はどういうつもりで書いたのでしょうか。もしかしたら、筆者も正解がわからないため、どちらともとれるように、あえて曖昧に書いたのかもしれません。自分でオリジナルソースにあたって調べたり裏どりをしたりすることができない(あるいは、しない)ときに、書き手はこういう書き方で読者をごまかすことがあります。

まとめると、元の文は、内容的に「他方で、」でつなぐことはそぐわない(1)と(2)を「他方で、」でつないでいるから気持ちが悪く、(2)と(3)の出典(話の出元)が同じような違うような曖昧な書き方をしているから気持ちが悪く、文章としてのそうした未熟さを(1)~(3)までを複雑な構造の一文にすることでごまかそうとしているように自分には感じられるのです。
こうした気持ち悪さや曖昧さを解消するためにも、(1)~(3)の部分は、文を分けたほうがいいように思います。

これらをふまえて、もしも自分が担当編集者だったなら、おそらく次のような感じに文章整理および校正をするでしょう。

(2)と(3)の関係が(a)の場合:

例としては、昭和期の落語評論家である安藤鶴夫があげられる。
安藤は、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物に対しては、やはり評論で持ち上げ、支援することで、昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。
自身が嫌う落語家に対しては客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなど、嫌がらせにも近い行為をする安藤は、5代目春風亭柳昇によれば、売れて人気が上がり、世間から持て囃される落語家を毛嫌いしていた。
また、寄席の楽屋では、安藤は、落語評論の世界で名を上げ、落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が立てられていたという。


(2)と(3)の関係が(b)の場合:

例としては、昭和期の落語評論家である安藤鶴夫があげられる。
安藤は、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物に対しては、やはり評論で持ち上げ、支援することで、昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。
安藤は、自身が嫌う落語家に対しては、客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなど、嫌がらせにも近い行為をしていた。
さらに、5代目春風亭柳昇によれば、安藤は、売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いするだけでなく、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が、寄席の楽屋では立てられていたという。


う~ん、どちらの文章も、「観賞拒否などの嫌がらせ」について書かれた部分の日本語が、あまりこなれていない感じです。どうにかなりませんかね。

あと、先にも記したように、元のウィキペディアの記事では、ここに抜き出した部分の前に、特定の人物等を攻撃することで名を売るケースと、力のある特定の人物等を持ち上げることで自身の影響力を高めるケースがある、という説明があります。
また、抜き出した部分にも、安藤氏は新作落語を手がける落語家を攻撃する一方で、古典落語の権力者を持ち上げて自身の影響力を高めたと書かれています。
しかし、安藤氏が行ったことの具体的な説明については、嫌いな落語家に対する攻撃についてしか書かれていません。権力者を具体的にどういうふうに持ち上げたのかが書かれておらず、それもとても気持ちが悪いです。
「攻撃」と「持ち上げ」という2つのテーマを示したのだから、その両方のテーマについて具体的な内容の記述が欲しかったです。

いろいろともやもやが残りますねぇ。
そしてこのエントリ、長いよ。

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2020/02/10

逆説の使い方が気になる

逆説は、効果的に使えば文章の刺激となり、躍動感にもつながりますが、使い方が微妙だなぁと感じる文章に出合うことも少なくありません。たとえば次の文章も、自分には非常に微妙に感じられます。


ポーランド初のF1ドライバーとして2006年にBMWザウバーでF1デビューを飾ったクビサは、将来のF1チャンピオン候補と目されていた。
だが、ロータス在籍時の2011年シーズン開幕前に参戦したラリーで大クラッシュを演じ、一時は選手生命を失ったかと思われていたクビサはそこから奇跡的とも言える復活を遂げ、2019年にウィリアムズから念願のF1復帰を果たした。

しかし、クビサは今年F1デビューを飾ったばかりのチームメートに対して予選全敗といいところがなく、1年限りでウィリアムズのシートを喪失。右腕に完治することのない障がいを抱えているクビサは、35歳という年齢もあり、もはや今後F1グリッドに並ぶことはないだろうと考えられている。

「ロバート・クビサはファイターだ」とレーシングポイントのオーナー:TopNews 2019年12月23日(月)19:59 pm
http://www.topnews.jp/2019/12/23/news/f1/187220.html


(1)「ポーランド初のF1ドライバーとして2006年にBMWザウバーでF1デビューを飾ったクビサは、将来のF1チャンピオン候補と目されていた。」

というブロックと、

(2)「ロータス在籍時の2011年シーズン開幕前に参戦したラリーで大クラッシュを演じ、一時は選手生命を失ったかと思われていたクビサはそこから奇跡的とも言える復活を遂げ、2019年にウィリアムズから念願のF1復帰を果たした。」

というブロックが、「だが、」という逆説を表す接続詞でつながれています。

ブロック(1)から修飾的な要素を取り除き、核となる部分を端的に表すと、「クビサは、将来のF1チャンピオン候補と目されていた」ということですね。

では、ブロック(2)はどうでしょうか。

ブロック(2)には、実際には核となる要素が2つ入っています。ひとつは「一時は選手生命を失ったかと思われていた」で、もうひとつは「念願のF1復帰を果たした」です。
この2つの要素は「失った」と「復帰を果たした」という逆説的な意味合いなので、この2つが「だが」などの逆説を表す接続詞でつながれていれば、おかしなことはありません。

しかしブロック(2)のなかには、逆説を表す接続詞は見当たりません。「失った」と「復帰を果たした」は「そこから」という継続的な意味合いを表す言葉でつなげられています。そのため、「失った」は「復帰を果たした」を修飾する要素と感じられます。
そうなると、ブロック(2)全体における核となる主張は「(クビサは、)念願のF1復帰を果たした」であるということになります。
そのため、ブロック(2)の冒頭にある「だが、」が気持ち悪く感じられてしまうわけです。

ブロック(1)の核とブロック(2)の核を「だが、」でつなげると、「クビサは、将来のF1チャンピオン候補と目されていた。だが、念願のF1復帰を果たした」となります。
チャンピオン候補と目されていたが、復帰を果たした???
意味がわかりません。

F1復帰を果たすには、その前に、F1から離れている時期がなければなりません。そのことについての言及はブロック(2)前半の「失った」でされているのですが、ブロック(2)自体は「復帰を果たした」を示すことを主とした文章になっており、「失った」はあくまでも補足的な扱いです。ですから、ブロック(1)とブロック(2)を、そのまま「だが、」でつなげられると、非常に微妙に感じてしまいます。

この微妙さを解消するには、まずは、「失った」と「復帰を果たした」という逆説的な2つの要素をもつブロック(2)を、「失った」パートと「復帰を果たした」パートの2つの文に分けることだと思います。そのうえで、ブロック(1)とブロック(2)のうちの「失った」パートとを逆説でつなぎます。

ポーランド初のF1ドライバーとして2006年にBMWザウバーでF1デビューを飾ったクビサは、将来のF1チャンピオン候補と目されていた。
だが、ロータス在籍時の2011年シーズン開幕前に参戦したラリーで大クラッシュを演じ、一時は選手生命を失ったかと思われていた。

これで、「チャンピオン候補と目されていた」と「選手生命を失ったかと思われていた」という逆の意味をもった文章をつなぐという、「だが、」という逆説を表す接続詞の本来の使い方となります。

さらにブロック(2)の後半の「復帰を果たした」は、「選手生命を失ったかと思われていた」とは逆説的な意味になりますので、ここも逆説を表す接続詞でつなぎます。

ポーランド初のF1ドライバーとして2006年にBMWザウバーでF1デビューを飾ったクビサは、将来のF1チャンピオン候補と目されていた。
だが、ロータス在籍時の2011年シーズン開幕前に参戦したラリーで大クラッシュを演じ、一時は選手生命を失ったかと思われていた。
しかし、そこから奇跡的とも言える復活を遂げ、2019年にウィリアムズから念願のF1復帰を果たした。

ここで問題が発生します。元の文のブロック(3)の頭は「しかし、クビサは今年~」です。そのため、このまま単純に並べると、

しかし、そこから奇跡的とも言える復活を遂げ、2019年にウィリアムズから念願のF1復帰を果たした。
しかし、クビサは今年F1デビューを飾ったばかりのチームメートに対して予選全敗といいところがなく、1年限りでウィリアムズのシートを喪失。

というように、同じ逆説の言葉で始まる文章が2回続いてしまうのです。
これは美しくありません。なにか言い換えを考えたくなります。

そこで、個々のブロックごとではなく、文章全体を見直してみることにしました。

ポーランド初のF1ドライバーとして2006年にBMWザウバーでF1デビューを飾ったクビサは、将来のF1チャンピオン候補と目されていたが、ロータス在籍時の2011年シーズン開幕前に参戦したラリーで大クラッシュを演じ、一時は選手生命を失ったかと思われていた。
だが、クビサはそこから奇跡的とも言える復活を遂げ、2019年にウィリアムズから念願のF1復帰を果たした。
しかし、クビサは今年F1デビューを飾ったばかりのチームメートに対して予選全敗といいところがなく、1年限りでウィリアムズのシートを喪失。右腕に完治することのない障がいを抱えているクビサは、35歳という年齢もあり、もはや今後F1グリッドに並ぶことはないだろうと考えられている。

これなら逆説の使い方に微妙さを感じずに済むように思うのですが、どうでしょうか。

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2020/02/09

言葉の選択の不統一が気になる

最近、電車の中吊りでみかけたシーバスリーガルの広告文面が微妙に気になります。
大写しになった宮藤官九郎さんの顔写真とともに、次のような文章が書かれています。


魔法使いの脚本家
映画で監督、演出、役者
作詞に作曲、ギタリスト
多彩な男の日課はジョギング
(シーバスリーガル12年の広告より)


気になるのは、言葉の選び方。

2行目は、「魔法使いの脚本家」=宮藤官九郎さんが、「映画」の分野においてどんな役割を果たしているかを端的に示そうとしたのだと思います。宮藤さんは「監督」であり「演出」であり「役者」であると。

もう、こう書いた時点で気持ち悪いです。

「監督」は、ここでは「映画監督」の略であり、映画製作全体において特定の役割をもった「人」のことだと考えられます。
「役者」はもちろん、その映画作品において役を演じる「人」のことですね。
しかし「演出」は、映画製作において誰かが行う「事」のひとつであり、「人」ではありません。「演出」を行う「人」のことを示す言葉には、「演出家」という名称があります。

つまり2行目は、それぞれ「人」「事」「人」を表す単語が並んでいるわけで、これがとても気持ちが悪い。なぜ1つだけ「事」を交ぜてしまったのでしょうか。

 映画で監督、演出家、役者

というように、すべてを「人」で統一したいと、自分はどうしても思ってしまいます。
あるいは、「監督」を「人」ではなく「映画製作を指揮・指導(監督)すること」という「事」を表す言葉として扱うのなら、

 映画で監督、演出、演技

というように、すべてを「事」で統一したい。

この「人」と「事」の不統一は、3行目でも続きます。


作詞に作曲、ギタリスト


あぁ、気持ちが悪い。

「作詞」は「歌詞をつくること」、「作曲」は「曲をつくること」であり、いずれも明白に「事」です。
しかし「ギタリスト」は「ギターを弾く人」のことであり、明白に「人」です。
つまり3行目は、「事」「事」「人」の並びになっているわけです。

「作詞する」「作曲する」とは言っても、「ギタリストする」とは言いません。
「私はギタリストです」は自然でも、「私は作詞です」「私は作曲です」は不自然です。
こういう不統一な言葉がひとつの文のなかで並列に扱われることが、自分にはとても気持ち悪いのです。

「作詞」をする「人」のことは「作詞家」と言い、「作曲」をする「人」のことは「作曲家」と言います。
ですから3行目は、すべてを「人」に統一し、

 作詞家に作曲家、ギタリスト

のほうが、それぞれの言葉がもつ意味の連なりとしては破綻がないと感じます。

ただ、ここは1行目の「魔法使いの脚本家」が「どんな人か」を説明する部分でもあるので、「作詞家」と「作曲家」をつなぐ言葉は「に」よりも「で」のほうが美しいですね。

 作詞家で作曲家、ギタリスト

逆に、すべてを「事」に統一することもできます。
「ギタリスト」とは「ギターを演奏する人」のことですから、すべてを「事」にするなら、

 作詞に作曲、ギター演奏

となりますね。
この場合、ここは1行目の「魔法使いの脚本家」が「どんなことをするか」を説明する部分となるので、「作詞」と「作曲」をつなぐ言葉は「に」のままで自然です。

そして4行目の最後は「ジョギング」という「事」で締められています。
ならば、全体を「事」で統一してしまいたい。

というわけで、これが広告のコピーではなく、ビジネス系・実用系の書籍の本文に書かれる文章であったなら、自分は次のように校正を入れたことでしょう。

 魔法使いの脚本家
 映画で監督、演出、演技
 作詞に作曲、ギター演奏
 多彩な男の日課はジョギング

「魔法使いの脚本家」は、映画では「監督」「演出」「演技」をし、音楽では「作詞」「作曲」「演奏」をする。そして毎日「ジョギング」している、と。こんな感じでいかがでしょうか。

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2020/02/06

語順とか助詞とか読点の位置とか、いろいろ気になる

日本語はけっこうフレキシブルな言語ですから、語順が多少前後しても助詞や読点が適切に使われていれば、それなりに誤解なく意味が伝わります。しかし、この記事の文章はいろいろ危険な感じがします。


実際にイリノイ州では昨年、納屋のドアに防犯のため散弾銃を使った罠を仕掛けて盗みに入った男が死亡している。
(Techinsight 2019.12.04 05:50 「【海外発!Breaking News】防犯用拳銃の罠に仕掛けた本人が被弾、死亡する(米)」より)
https://japan.techinsight.jp/2019/12/masumi12011403.html


死亡した(述語)のは「男」(主語)であることは明白ですが、その「男」の前にある部分の文章がおかしい。

「男」にいちばん近い「盗みに入った」との組み合わせは自然です。「盗みに入った男」が死んだと。
気持ち悪いのは「罠を仕掛けて」の部分です。

ちなみに、「散弾銃を使った」は「罠」の内容の説明ですね。「散弾銃を使った罠」を仕掛けたと。
「防犯のため」は、「罠を仕掛け」た理由の説明。「防犯のために罠を仕掛けた」と。
「納屋のドアに」は、「罠を仕掛け」た場所の説明。「納屋のドアに罠を仕掛けた」と。
「納屋のドアに防犯のため散弾銃を使った罠」という文章で、どこに、どういう理由で、どういうタイプの「罠」を仕掛けたかということが、説明されているわけです。

問題は、このあとです。


罠を仕掛けて盗みに入った男が死亡


これだと、「盗みに入った男」が自分で罠を仕掛けたように読めてしまいます。
実際は、罠を仕掛けたのは「盗みに入った男」が盗みに入った家の持ち主です。
それなのに、「盗みに入った男」という主語を修飾するように「仕掛けて」と能動態を前に置くから、おかしな感じになるのです。

せめて「罠を仕掛けて、盗みに入った男が死亡」という具合に、途中に読点があれば、「罠を仕掛て」と「盗みに入った」のあいだの結びつきが少し弱まり、それぞれ別の対象についての説明であるとの書き手の主張に多少の説得力が発生したかもしれません。
ただ、それでも読者のもつ「文脈を読む力」への依存度が高く、誤解を生む可能性のある文章表現だと感じます。

では、どういうふうに書けばいいのか。

「納屋のドア」とか「防犯のため」とか「散弾銃を使った」とかは「罠」の説明ですから、それらをいったん脇に置き、この文章が伝えたいことをごくシンプルにすると、

「盗みに入った男は、仕掛けられた罠で死亡した」

ということです。
これをもとに、脇に置いた「罠」の説明を戻していってあげると、たとえばこんなふうになります。


「納屋のドアに防犯のために仕掛けられた、散弾銃を使った罠で、盗みに入った男が死亡している」


ただ、これだと「納屋のドア」がけっこう強めに印象に残ります。
罠を仕掛けた理由は「防犯のため」であり、実際にその罠で「盗みに入った男」の犯罪を阻止している(少なくとも「住居侵入」以外の犯罪は防いでいる)わけですから、自分としては「防犯」を強調したい感じがします。
そうすると、語順としてはこんな感じでしょうか。


「防犯のために納屋のドアに仕掛けられた、散弾銃を使った罠で、盗みに入った男が死亡している」


なお、「罠」を説明する言葉が多く、全部をそのまま並べると長くなってしまうので、「死亡している」という述語に最も関係の深い「散弾銃を使った」だけを「罠」と直接に連携させ、それ以外の説明とは読点で区切りました。
「散弾銃を使った罠」で死亡することはあっても、「防犯のための罠」や「納屋のドアに仕掛けられた罠」で死亡することはあまりなさそうという理由です。

ちなみにこの記事、「防犯用拳銃の罠に仕掛けた本人が被弾、死亡する」というタイトルもなんだか気持ちの悪い文章です。
「罠」は「かかる」ものであり、「被弾」するものではありませんから、「罠に被弾」という組み合わせが気持ち悪い。
自分だったらどうするかな。たとえば、こんな感じでどうでしょう。


「罠に仕掛けた防犯用拳銃で本人が被弾、死亡する」


直しを最小限にするなら、「罠に」の「に」を「を」に替えて、


「防犯用拳銃の罠を仕掛けた本人が被弾、死亡する」


というのでもいけそうです。
ただ、これだと意味を明確にするには、「防犯用拳銃の罠を仕掛けた本人が、(仕掛けた銃により)被弾、死亡する」というように、( )内を読み手に補足してもらわなくてはなりません。
文芸などでは読者に「行間を読ませる」という考えもありますが、ビジネス系の書籍では「明確に、誤解がないように伝える」ことを重視することが多いので、読み手が内容補足をする必要がない文章にすることを、自分は意識しています。

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2020/02/05

その「助詞」が気になる

途中で所属する会社はかわりましたが、気がつけばもう25年もビジネス書系の小さな出版社で、「編集者」という肩書きで仕事をしています。それ故の職業病か、目の前の原稿に限らず、文章を見るとつい「校正作業」をしてしまう。そしてしばしば「気になる文章」を見つけてしまうのです。
「産経新聞」のウェブサイトに掲載された記事も、気になる。。。。


河野太郎防衛相は28日夕、防衛省で記者団に、北朝鮮が午後4時58分に弾道ミサイル2発が発射されたと断定し(後略)
(産経新聞 THE SANKEI NEWS 2019.11.28 19:29「河野防衛相「弾道ミサイル」2発と断定 距離は約380キロ」より)
https://www.sankei.com/politics/news/191128/plt1911280039-n1.html


「北朝鮮が午後4時58分に弾道ミサイル2発が発射されたと断定」って、明らかにおかしい。1つの文のなかに「北朝鮮」と「弾道ミサイル2発」という2つの主語があるからですね。

主語が「北朝鮮」なら、「弾道ミサイル2発」は目的語だから、「北朝鮮が午後4時58分に弾道ミサイル2発を」にして、動詞も能動態にして「発射したと断定」ですよね。シンプルなかたちにすると、北朝鮮がミサイルを発射した、ということ。

主語を「弾道ミサイル2発」にするなら、「北朝鮮」はそれが起きた場所を表すことになるから、「北朝鮮から午後4時58分に弾道ミサイル2発が発射されたと断定」ですね。シンプルなかたちにすると、北朝鮮からミサイルが発射された、ということ。

ミサイルは、誰かが発射しないと、ミサイル自身の意思で発射はされないので、主語が「北朝鮮」という「意思を持つもの」なら動詞は能動態で「発射した」、主語が「弾道ミサイル」という「意思を持たない無生物」なら動詞は受動態で「発射された」が適切だと思われます。

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