不自然な言葉の組み合わせが気になる
言葉には、適した組み合わせというものがあります。
ところがときどき、言葉の組み合わせ方が不自然な文をみかけることがあります。短い文ではあまりないのですが、少し長めの文になると、文の途中で適切な組み合わせを見失ってしまうのか、「その主語に、その述語は違うんじゃない?」などと違和感をもってしまうものに出合います。
たとえば次の文などは、非常に強い違和感があります。
その背景には、生真面目すぎても伝わらない、でも軽いだけでは伝わらない…というバランスを見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”としての発言力を持っていることは間違いない。(「チャラ軽いのに重い? EXIT・兼近、“本当に刺さる”コメント力」2020-06-02 オリコン ORICON NEWS)
一見、それほど複雑には見えない文ですが、分析的に構造を見ると、思ったよりも複雑です。
というのも、文の基本構成は「主語+述語」ですが、この文の主語は、「主語+述語」の組み合わせを含むブロックとなっているからです。
つまり、「主語ブロック(主語+述語を含む)+述語」という構造になっています。
この文全体の主語となっているのは、
その背景には、生真面目すぎても伝わらない、でも軽いだけでは伝わらない…というバランスを見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”としての発言力を持っていること
です。「その~こと」(主語ブロック)は、「間違いない」(述語)というかたちです。
この大枠の部分については、特に気になるところはありません。問題は、主語ブロック内にある「主語+述語」の組み合わせです。
主語ブロック内における主語は「その背景には」ですね。では、「その背景には」に対応する述語はどれかというと、「持っている」の部分です。ちなみに、「生真面目すぎて~言葉”としての」の部分は、そのあとに続く「発言力を」の内容を説明したものです。
つまり、この主語ブロックは「主語+目的語+述語」という構造になっています。
文の基本構成は「主語+述語」ですから、このブロックの主語である「その背景には」と、述語である「持っている」を組み合わせてみます。
(1)その背景には~(発言力を)持っている
どうでしょうか。違和感ありまくりです。
「背景」とは、物事の背後にある事情や理由などのことです。つまり、「背景には」という主語に対応する述語は、「(このような事情や理由などが)ある」というかたちになっていると自然に感じます。
ところが(1)の組み合わせは、そういうかたちにはなっていないため、違和感があるのです。
そこで、違和感がなくなるように、元の文に少し手を加えて、主語ブロックの述語のあたりを書き換えてみます。
その背景には、生真面目すぎても伝わらない、でも軽いだけでは伝わらない…というバランスを見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”としての発言力がある
元の文では「発言力を持っている」となっていた部分を、「発言力がある」に書き換えてみました。こうすれば、
(2)その背景には~(発言力が)ある
というかたちになり、主語と述語の組み合わせにおいては違和感がなくなります。
しかし、違和感が残る場所はほかにもあります。それは、「発言力」の内容を説明する部分です。
説明部分の前半を見てみましょう。
生真面目すぎても伝わらない、でも軽いだけでは伝わらない…というバランスを見極め、
まず気になるのは、「生真面目すぎても」のあとに「軽いだけでは」という表現があることです。
「生真面目すぎて」と「軽いだけ」の順番はどちらが先でもよいのですが、「も」と「は」の順番は、この並び順では不自然です。
「も」という助詞は、たとえばAというものがあり、それとは別にBというものが並列的に、あるいは付け加えるものとしてあるような場合に使います。
使い方としては、「ここにリンゴがある。バナナもある」とか「この世には神はいないし、悪魔もいない」というように、複数あるもののうちの2つめ以降に出てくるものにつけるのが標準的です。
あるいは、対象となるものが複数あることを最初から示唆することを目的に、「~も、~も」というかたちで使うこともあります。「ここにリンゴもある。バナナもある」「この世には神もいないし、悪魔もいない」というかたちです。
しかし、最初に出てくるものに「も」をつけ、あとに出てくるものに「は」や「が」といった助詞をつけることはありません。
たとえば先の例文を、使う助詞の順番を逆にして、「ここにリンゴもある。バナナがある」「この世には神もいないし、悪魔はいない」としたら、日本語として非常に不自然になります。
ところが元の文は「生真面目すぎても~、軽いだけでは~」という助詞の使い方をしています。そのため、不自然さを感じるのです。
そこで、助詞を書き換えます。
生真面目すぎては伝わらない、でも軽いだけでも伝わらない…というバランスを見極め
生真面目すぎても伝わらない、でも軽いだけでも伝わらない…というバランスを見極め
こうすると、「も」の使い方の違和感は解消されます。
しかし、まだ、なにかもやもやとしたものが残ります。
その原因は、「でも」という逆接の接続詞を使って対比させている言葉が、実は対比になっていないからです。
この部分では、「生真面目すぎ」と「軽いだけ」という言葉を逆接の接続詞「でも」で対比させています。どちらも「伝わらない」の理由となるが、その方向性が逆であるということを示し、そのあとに続く「バランスを見極め」につなげるという文の構成です。
しかし、「生真面目」と「軽い」は対比になっていると言えますが、「~すぎ」と「~だけ」は対比と言えるでしょうか。
「~すぎ」という表現は、あるものについての性質や数値などの程度が、そのものの標準や平均値、期待値などと比べて、かけ離れているときに使います。「そのリンゴは(標準的なリンゴに比べて)大きすぎる」とか「彼の血圧は(同年代の健康な男性の平均的な血圧に比べて)低すぎる」というような使い方です。
「~だけ」という表現は、複数ある要素のなかから特定の要素を抽出し、他の要素の存在は考慮しないものとして扱うときに使います。「10人いるメンバーのなかから身長が170㎝以上ある者だけを選んだ」「赤く色づいた苺だけを摘んでね(色のついていないものはそのままにしておいてね)」というような使い方です。
つまり、そのものについてのなんらかの「程度」を示す「~すぎ」と、複数あるなかから「抽出」された要素を示す「~だけ」は、言葉がもつ意味の性質が異なります。そもそもの性質が違うため、「~すぎ」と「~だけ」の組み合わせは、対比や比較になりません。
物事についての対比や比較をするには、対比や比較をする「性質」を同じにする必要があります。
たとえば元の文を「程度」についての対比にするのであれば、次のようになります。
生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない…というバランスを見極め
生真面目すぎても伝わらない、でも軽すぎても伝わらない…というバランスを見極め
あるいは、「抽出」についての対比にするのであれば、次のようになるでしょう。
生真面目なだけでは伝わらない、でも軽いだけでも伝わらない…というバランスを見極め
生真面目なだけでも伝わらない、でも軽いだけでも伝わらない…というバランスを見極め
ここまでで、助詞の「は」「も」の使い方と、対比させる物事についての、組み合わせの不自然さは解消されました。
しかし、この部分には、まだ不自然な部分が残っています。それは、「…というバランスを見極め」の部分です。
言いたいことはわかります。「生真面目」に寄りすぎても、「軽い」に寄りすぎても、「伝わらない」。だから、「生真面目」と「軽い」のあいだにある「伝わる」位置=「生真面目」と「軽い」のバランスがとれる位置を探す、ということです。
そうです。「○○という◇◇」という表現はこのように、「という」の前にある文言「○○」が、「という」のあとにある文言「◇◇」の内容や性質などを説明している場合に使うのが一般的なのです。
念のために書いておくと、「~のバランスがとれる位置を探す、ということです」では、「という」の前にある「~のバランスがとれる位置を探す」が、「という」のあとにある「こと」の内容を説明しています。
ここで再度、文を見てみましょう。
生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない…というバランスを見極め
「バランス」という言葉は、「均衡」「つりあい」「調和」といった意味を表す言葉です。あるいは、「均衡を保つ(保たせる)」「つりあいを取る(つりあわせる)」というように動詞的にも使います。
つまり、「バランスを見極め」とは、方向性の違う複数のものがあり、なんらかの意図や目的などにおいてそれらの「均衡」「つりあい」「調和」がとれる位置をみつけだす、という意味になります。
先にも書いたように、「という」の前には、「という」のあとに書かれる文言の内容や性質などの説明を書きます。
したがって、この文においては、「という」の前には、見極める「バランス」の内容や性質の説明が必要です。「なにとなに」(方向性の違う複数のもの)のバランスを見極めようとしているのか、「なんのため」(なんらかの意図や目的など)のバランスを見極めようとしているのか、ということです。
ところがこの文では、そうした説明が、「という」の前の部分にありません。書かれているのは「~では伝わらない」ということだけで、「なにとなにのバランス」なのか、あるいは「なんのためのバランス」なのかについては、なにも書かれていないのです。
もういちど、要素だけを抜き出してみます。
生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない…というバランス
これ、いったいどんなバランスでしょうか。なんのバランスなのでしょうか。
この部分が伝えたいことは、「伝わるためのバランス」をみつける必要がある、ということのはずです。「生真面目すぎ」「軽すぎ」では伝わらないけれど、「生真面目」と「軽い」を調和させれば、伝わるのではないか。だから、伝わるための「生真面目」と「軽い」の組み合わせ方、つまり、両者の最適な比重=バランスを見極めることが大事、ということです。
「というバランス」という表現を使うのであれば、その前の部分に、ここに書いたような説明が必要です。たとえば、次のような感じになるでしょうか。
生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない、伝わるためには「生真面目」と「軽い」の比重をどうするか…というバランスを見極め
あるいは、そもそも「というバランス」という表現を使わない、という調整のしかたもあるでしょう。
生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない、「生真面目すぎ」と「軽すぎ」のあいだにある「伝わるバランス」を見極め
このふたつを見比べてみると、「というバランス」を使わない調整のしかたのほうが、すっきりしていてよいように私は感じるのですが、いかがでしょうか。
ここまでを元の文に当てはめてみると、次のようになります。
その背景には、生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない、「生真面目すぎ」と「軽すぎ」のあいだにある「伝わるバランス」を見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”としての発言力があることは間違いない。
だいぶよい感じになってきましたが、まだ違和感が残ります。
その原因は、「“軽いけれど重たい言葉”としての発言力」という表現にあります。
「AとしてのB」という表現は、「A」という資格、立場、部類、名目などにおける「B」を表すようなときに使われます。
あるいは、「B」を「A」という名目や部類に含まれるものとして活用したり定義したりするといったかたちで使われることもあります。
では、「“軽いけれど重たい言葉”としての発言力」はどうでしょうか。
「軽いけれど重たい言葉」という資格、立場、部類、名目における「発言力」を表しているでしょうか。
それとも、「発言力」を「軽いけれど重たい言葉」という名目や部類において活用あるいは定義しているのでしょうか。
残念ながら、そのどちらの解釈も難しいと感じます。
「AとしてのB」という表現は、「Aという資格や立場において、Bを実行、実施、実現する」といった具合に書き換えても意味が通じる文になります。たとえば「親としての責任」は、「親という立場において、(誰か、あるいはなにかに対する)責任を果たす」と書き換えても意味が通じます。
あるいは、「AとしてのB」が「Bを、Aという名目や部類に含まれるものとして活用したり定義したりする」といったかたちで使われている場合、たとえば「武器としての思考能力」は、「思考能力を、(誰か、あるいはなにかに対抗するための)武器(という部類)の一種と定義する」というように書き換えても意味が通じます。
しかし「“軽いけれど重たい言葉”としての発言力」は、「“軽いけれど重たい言葉”という立場において、発言力を発揮する」では意味がわかりませんし、「発言力を、“軽いけれど重たい言葉”(という部類)の一種と定義する」も意味がわかりません。
それに、そもそも「発言力」とは、発言によって他の人を動かしたり従わせたりすることができる影響力のことです。「発言力」があるのは発言をする「人」であり、発言された「言葉」そのものではありません。
こうしたことからも、「軽いけれど重たい言葉」と「発言力」とを「としての」で結びつけることには無理があるように思うのです。
では、どのように調整しましょうか。
たとえば「としての発言力」のところを、「として発言する力」と替えてみるとよいかもしれません。
その背景には、生真面目すぎては伝わらない、でも軽すぎても伝わらない、「生真面目すぎ」と「軽すぎ」のあいだにある「伝わるバランス」を見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”として発言する力があることは間違いない。
文としては、まだこなれていないというか、あまり美しい文ではありませんが、日本語の使い方における違和感は、これで解消されたように思います。
もう少し調整するならば、「でも軽すぎても伝わらない」のところの「でも」は不要かもしれません。そのあとに続く文により、あえて「でも」を使って逆接にする必要が薄れているからです。
その背景には、生真面目すぎては伝わらない、軽すぎても伝わらない、「生真面目すぎ」と「軽すぎ」のあいだにある「伝わるバランス」を見極め、今、若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”として発言する力があることは間違いない。
うん、このほうがよさそうですね。
もし、元の文にある「発言力」という表現を活かすのであれば、大幅に文章を変えたほうがよいように思います。
元の文は、「チャラ軽いのに重い? EXIT・兼近、“本当に刺さる”コメント力」というタイトルがつけられた記事の一部で、「発言力がある」とされているのは兼近さんです。その点を加味して、補足を加えつつ調整してみます。
その背景には、兼近のもつ発言力があることは間違いない。生真面目すぎては伝わらないし、軽すぎても伝わらない。だから「生真面目」と「軽い」のバランスを見極め、今の若者に刺さる“軽いけれど重たい言葉”にして伝える。そのバランス感覚に長けているのだ。
こんな感じに調整してみました。いかがでしょうか。
元の文は全体で1つでしたが、そこに書かれている要素は複数ありました。そこで、要素ごとに文を分けてみました。
1つの文で複数の要素を伝えようとすると、どうしても一文が長くなりますし、作文技術の面でも難度が高くなります。それよりも、要素ごとに文を分け、短い文を複数つくるほうが、技術面で簡単になることが多いですし、読み手にとっても理解しやすい文になることが多いのではないかと思います。
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