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2020/02/11

一文が長すぎることが気になる

私がまだ学生だった昭和の時代には、文章を読点(、)で区切りつつ延々とつなげ、なかなか句点(。)にたどり着かない「長い文」に出合うことは、それほど稀ではなかったように思います。小説などでも、一文が4行や5行に渡るような文章は、それほど珍しくはなかったのではないでしょうか。当時の書籍はいまよりも文字のサイズが小さく、1行の文字数も多かったので、現代の書籍の文字組みにすると、一文が6行とか7行とかになってしまうかもしれません。

しかし最近は、文字数の多い文章自体が好まれないこともあり、句点(。)で区切られた一文の長さも短めであることが主流です。感覚的には、一文が80字程度(四六判サイズの標準的な縦書きの書籍で2行程度)を超えると「長いよ」と感じるのではないでしょうか。

読みやすく、かつ、文法的にも論理的にも破綻やねじれなどがないようにして、長い一文を書くには、書き手にそれなりの執筆技術が必要ですし、たとえそうした一文が書けたとしても、その文を読むには、読み手にもそれなりの読解技術が要求されます。――と書いたこの一文が、ずいぶん長いですね。

特にビジネス系の書籍などの、解説や提案といった内容が主の書籍では、読み手にできるだけ誤解を与えないためにも、文章を簡潔明瞭にすることが求められます。

文章を読点(、)でつなげて一文を長くするよりも、句点(。)で区切って複数の文章に分けたほうが、たいていの場合は、読み手にとって読みやすく、理解しやすくなります。ビジネス系に限らず、最近では小説も、一文が短い傾向にあるようですね。いまは「一文は短く」が主流なのでしょう。

そんななかで、ひさしぶりに「大作」の一文に出合いました。


例としては昭和期の落語評論家の安藤鶴夫があり、安藤は新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥し、一方で古典落語界の権力者である人物はやはり評論で持ち上げ支援し、これにより昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした人物であるが、自身が嫌う落語家に対しては客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなどという嫌がらせにも近い行為を見せ、他方で5代目春風亭柳昇によれば、安藤は売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いしており、また、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が寄席の楽屋では立てられていたという。

ウィキペディア「評論家」最終更新 2019年5月13日 (月) 00:59
https://ja.wikipedia.org/wiki/評論家


すごい。およそ300文字程度が1つの文になっています。
これだけの情報量を、途中で区切ることなく一文で記述するのは、さぞかしたいへんだったでしょうと、その努力には敬服します。しかし、あえて一文でなければならない理由が、自分にはわかりません。


例としては昭和期の落語評論家の安藤鶴夫があり、安藤は新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥し……


ここ、自分なら確実に「落語評論家の安藤鶴夫がある。」でいったん文章を終わらせます。

ただ、元のウィキペディアの記事では、ここに抜き出した文章の前の部分で、ある種の権威を得た評論家が特定の人物や団体を激しく非難することで名を売るケース、および、業界内で実権を持つ特定の人物や団体を持ち上げることでそれらとの関係性を深め、自身の影響力を高めるケースについて言及しています。そして、ここに抜き出した文章は、そうした評論家の一例として安藤氏を出しています。その流れを考慮に入れれば、「安藤鶴夫があり、安藤は……」とつなげたくなる理由も、わからなくはありません。

しかし、その場合でも、「大きな影響力を及ぼした人物であるが、自身が嫌う落語家に対しては……」の部分は読点(、)を句点(。)に換え、文をいったん終わらせたほうがいいと考えます。そのうえで、重複部分のスリム化や読点の位置の調整などの整理すると、次のような感じになるでしょうか。


例としては昭和期の落語評論家の安藤鶴夫があり、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物はやはり評論で持ち上げ支援し、これにより昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。


これでも悪くはありませんが、やはり「安藤鶴夫があり、」でいったん区切ったほうが読みやすいでしょう。


例としては、昭和期の落語評論家の安藤鶴夫がいる。
安藤は、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物はやはり評論で持ち上げ支援し、これにより昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。


さて、このあとに続く「自身が嫌う落語家に……」以降の部分では、安藤氏が行ったことの具体的な説明が、やはり一文で記されています。しかし、この一文のなかには、安藤氏が行ったこととして、次の3つのことが書かれています。

(1)自身が嫌う落語家に対しては客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなどという嫌がらせにも近い行為を見せ、
(2)人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いしており、
(3)落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている

元の文は、ここの構造が少しばかり複雑というか、なかなか気持ちが悪い感じです。

まず、(1)と(2)を「他方で」という接続詞でつなげています。

「他方で」というのは、「Aという流れや物事がある一方で、Aとは別の方向に向かうBという別の流れや物事がある」ような状況のときに使う言葉です。「彼はビジネスシーンでは非常に合理的かつ冷静に振る舞う。他方で、プライベートの彼は義理人情を重視し、喜怒哀楽もわかりやすい」といったような感じでしょうか。

しかし元の文では、(1)の「嫌う落語家に対して嫌がらせ」と(2)の「人気がある落語家を毛嫌い」は、流れとしては同じ方向にあると考えられます。人気がある落語家を毛嫌いし、嫌う落語家に嫌がらせをするわけですから、(1)と(2)は同一線上にあると言えます。

同じ流れの上にあるものどうしを「他方で」でつなげるのは、文法的に非常に気持ちが悪いと感じます。
たとえば、「嫌う落語家に対しては嫌がらせをする。他方で、認める落語に対しては祝儀をはずむ」といったような流れであれば、「他方で」が正しく機能するのですけどね。

元の文をさらにわかりにくくしているのは、(2)の前におかれた「5代目春風亭柳昇によれば」という文言と、(2)と(3)をつなぐ「また、」という接続詞、そして文の最後におかれた「という旨の噂が寄席の楽屋では立てられていたという。」という文言の存在です。

「また、」には、

(a)その前後で文を「別のもの」として「区切る(分ける)」
(b)「また、」の前で書かれたことに、「また、」のあとに書かれる「別のこと」を「つけ加える」

の2種類の役割があります。そして元の文では、この「また、」が(a)(b)のどちらの意味で使われているのかがわかりません。

もし(a)だとすれば、(2)は5代目春風亭柳昇が自分の考えを述べたものであり、(3)は楽屋の噂話として伝わることを5代目春風亭柳昇が伝えたものです(元記事の注釈によれば、少なくとも(3)は5代目春風亭柳昇の著書から引いたもののようですが、(2)も同じ著書からとは断定できません。そのため、ここでは「ソースは別」と考えることにします)。ですから、次のように文を分けられます。


5代目春風亭柳昇によれば、安藤は売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いしていた。
また、安藤は、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が寄席の楽屋では立てられていたという。


もし(b)だとすれば、(2)も(3)も楽屋の噂話であり、そういう噂があると5代目春風亭柳昇が言った、ということになります。加えて、同じ文脈であるならば、「標的」とされる「特定の落語家」は、安藤氏が毛嫌いする「世間からもてはやされる落語家」のなかから選ばれているようにも思えます。そうしたことを明確にするには、次のように書き換えてみるとよさそうです。


5代目春風亭柳昇によれば、安藤は、売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いするだけでなく、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が、寄席の楽屋では立てられていたという。


どちらが正解かは、元の文だけからは読み取ることができません。筆者はどういうつもりで書いたのでしょうか。もしかしたら、筆者も正解がわからないため、どちらともとれるように、あえて曖昧に書いたのかもしれません。自分でオリジナルソースにあたって調べたり裏どりをしたりすることができない(あるいは、しない)ときに、書き手はこういう書き方で読者をごまかすことがあります。

まとめると、元の文は、内容的に「他方で、」でつなぐことはそぐわない(1)と(2)を「他方で、」でつないでいるから気持ちが悪く、(2)と(3)の出典(話の出元)が同じような違うような曖昧な書き方をしているから気持ちが悪く、文章としてのそうした未熟さを(1)~(3)までを複雑な構造の一文にすることでごまかそうとしているように自分には感じられるのです。
こうした気持ち悪さや曖昧さを解消するためにも、(1)~(3)の部分は、文を分けたほうがいいように思います。

これらをふまえて、もしも自分が担当編集者だったなら、おそらく次のような感じに文章整理および校正をするでしょう。

(2)と(3)の関係が(a)の場合:

例としては、昭和期の落語評論家である安藤鶴夫があげられる。
安藤は、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物に対しては、やはり評論で持ち上げ、支援することで、昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。
自身が嫌う落語家に対しては客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなど、嫌がらせにも近い行為をする安藤は、5代目春風亭柳昇によれば、売れて人気が上がり、世間から持て囃される落語家を毛嫌いしていた。
また、寄席の楽屋では、安藤は、落語評論の世界で名を上げ、落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が立てられていたという。


(2)と(3)の関係が(b)の場合:

例としては、昭和期の落語評論家である安藤鶴夫があげられる。
安藤は、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物に対しては、やはり評論で持ち上げ、支援することで、昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。
安藤は、自身が嫌う落語家に対しては、客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなど、嫌がらせにも近い行為をしていた。
さらに、5代目春風亭柳昇によれば、安藤は、売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いするだけでなく、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が、寄席の楽屋では立てられていたという。


う~ん、どちらの文章も、「観賞拒否などの嫌がらせ」について書かれた部分の日本語が、あまりこなれていない感じです。どうにかなりませんかね。

あと、先にも記したように、元のウィキペディアの記事では、ここに抜き出した部分の前に、特定の人物等を攻撃することで名を売るケースと、力のある特定の人物等を持ち上げることで自身の影響力を高めるケースがある、という説明があります。
また、抜き出した部分にも、安藤氏は新作落語を手がける落語家を攻撃する一方で、古典落語の権力者を持ち上げて自身の影響力を高めたと書かれています。
しかし、安藤氏が行ったことの具体的な説明については、嫌いな落語家に対する攻撃についてしか書かれていません。権力者を具体的にどういうふうに持ち上げたのかが書かれておらず、それもとても気持ちが悪いです。
「攻撃」と「持ち上げ」という2つのテーマを示したのだから、その両方のテーマについて具体的な内容の記述が欲しかったです。

いろいろともやもやが残りますねぇ。
そしてこのエントリ、長いよ。

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