求めない・求められない
今朝はThe Enidの『Aerie Faerie Nonsense』を聴こうと思っていたのだけど、出掛けに、CDプレイヤーが電池切れだったことに気がついた... しょんぼりです。
自分はそんなに芸術とか文学とかに強い興味はないのだけど、でもときどき無性に、美しいもの、奥深いものに触れたくなるときがある。いや、あった。
自分の日々の生活は常に芸術や文学に彩られているとはいえず、むしろ美や奥深さとは程遠い、猥雑で表層的で騒がしく潤いの乏しいものだ。いまに始まったことではない。ずっと以前、学生のころから、こうした醜悪さは変わらない。
そのような中で過ごしているからこそ、余計に心が美を求め、奥深さを求め、たとえ一時的にでも醜悪な日常からの脱出をしたいという欲求を強く覚えるときがある。頻繁にではないけれど、数年に1度くらいの割合で、西洋絵画が足りないと強く感じる。美術を見にいかなければ、象徴派絵画やラファエル前派を見なければ、あるいは、おそらくこれまでに読んだことのある本のなかでもっとも大きな影響を自分に与えたと思える短編小説、アルベール・カミュの『異邦人』を読まなければ、自分の心が、感性が、枯れていってしまう、干からびてしまう、という危機感を感じることが、心が西洋美術や小説を求めていると感じることが、あった。
でも、ここ数年、そういったことがない。
自分を取り巻く環境の日常的醜悪さは変わらない。いや、むしろ、より醜悪になっているかもしれない。にもかかわらず何年も、美術に触れたい、小説を読みたい、美しいものに魅了されたいといった欲求が、心が発する強い要求が、感じられない。
なぜなのだろう。
たしかにここ数年、年に1度はヨーロッパを訪れている。それも、観光客向け商業メインの大都市ではなく、素朴さの残る地方都市に1週間ほど滞在してのんびりするというかたちをとっている。滞在中はとくに美術品を見たりすることもなく、たんに町歩きを楽しみ、その風景などを眺めたりするだけなのだけれど、それで、西洋に対する憧れ、ヨーロッパの持つ美しさへ触れることへの欲求が、ある程度満たされているのだろうか。
そうであるならいいのだけれど、そうでないのかもしれない。
潤った大地も、日照りにさらされれば乾燥する。多少乾燥しても、乾ききらないあいだであれば、少し雨が降ればまた潤う。しかし、乾ききった大地は、少しの雨では潤わない。そして砂漠となっていく。砂漠で雨を求めるのは、外から砂漠に入ってきたものだけ。砂漠そのものは雨を求めたりはしていないだろう。
優れた美を、優れた芸術を、優れた文学を、求めなくなったのは、どこかでなにかでそれが代償されているからなのか、それとも、求める心さえ枯れてしまい、求められなくなってしまったのか。
パリのモロー美術館で多くの絵画に囲まれて感じたあの高揚感を、
ふらりと入ったシエナのはずれの教会のキリスト像になぜか心奪われ動けなくなったあの感覚を、
ぼんやりと眺めていたシスティーナ礼拝堂の天上画に描かれた神々がにわかに命を持って動き出すのをたしかに感じたあの瞬間を、
これから先、自分はまた得られることはあるのだろうか。
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