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2006年9月

2006/09/29

もあ伝説

自分も知らなかった数々の伝説があきらかに!?

伝説のあなた

もあ伝説、いま、はじまる!

もあはショッカーの改造人間である。
そして5歳のとき、今まで生きてきた世界が全て虚構だと気づき、真実を探す旅に出る。
もあ8歳の春、実の妹と恋に堕ち、駆け落ち。
ザクより30%は性能が上だった。
もあは男が好きだった。
199X年、モヒカンでマッチョな悪人だったもあは、世紀末救世主に秘孔を突かれて爆発する。享年24歳。

????

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2006/09/28

LINO BANFI e AMEDEO MINGHI / SOTTO L'OMBRELLONE (2005)

ローマ出身のカンタウトーレ、Amedeo Minghi(アメデオ・ミンギ)が、バーリ(Bari)出身の喜劇俳優、Lino Banfi(リーノ・バンフィ)と組んでリリースしたアルバムです。歌詞はLinoが書き、曲はAmedeoがつくっています。

ちなみにLinoはイタリアにおけるユニセフの国内大使でもあるようで、このアルバムもユニセフがらみ。アルバム売上の一部が、アフリカ東部の国エリトレア(Eritrea)に学校をつくるのに使われるようです。

収録されているのはすべて新曲です。Linoがメイン・ヴォーカルをとる曲が多いように感じますが、1曲を通してLinoかAmedeoのどちらかだけが歌うということはなく、交互に歌ったり、ハーモニーをつけたりと、ふたりで歌っています。また、子供によるヴォーカルやコーラスなども積極的に導入されています。

M1「Sotto l'ombrellone」は、Amedeoらしいメロディをアップ・テンポにし、ちょっとコミカルでリズミカルなアレンジを施したといった印象です。AmedeoとLinoは交互にヴォーカルをとり、またふたりのコーラスも聴かせてくれます。ところどころでキーボードの使い方がとてもAmedeo風です。

M2「Bagnasciuga」は、ムーディなイタリアン・ポップスに少しジャジーなアレンジを施した感じでしょうか。中間部ではアップ・テンポでにぎやかな、ヨーロッパの田舎のお祭り音楽風な楽しい曲調になります。Linoの歌声は、ちょっとひび割れていて、ひなびた感じがいい味わいとなっています。

M3「W il bagnino」は、通常のAmedeoのアルバムではまず聴けないであろう、ディストーション・ギターが前面に響くロック。一瞬聴こえるオルガン・サウンドもオールドなロックぽい味わいです。ただ、Amedeoですし、ユニセフがらみでもあってか、ギンギンなロックにはなりません。リズム・セクションが打ち込みなので迫力が出ませんし、子供のコーラスが大きく導入されていて、明るく楽しげです。

M4「Lo spaghettino」は、リゾート風のゆるい楽しさが感じられるようなポップス。レゲエ風のリズムやジャマイカンな風味のドラムが導入され、明るく軽快です。途中でクラリネットのやわらかな音色もあり、とてもリラックスした雰囲気。Linoの少しひび割れた歌声もよく合います。コーラスも気持ちよさげで、明るい海辺で寝そべって聴きたい感じです。

M5「Faimedesimotalequaleame」は、ピアノと薄いキーボード・オーケストレーションを中心にしたスローな曲で、あたたかくやわらかな感じがとてもAmedeoらしいです。ヴォーカルもAmedeoがメインで、サビでは子供たちによるコーラスが入ります。

M6「Senza il cellulare」は、ほんの少しナポリっぽい匂いもするフォーク・ロックといった感じでしょうか。ウェスタンぽいところもあるともいえるかもしれません。アコースティック・ギターのストロークがメインで、ガット・ギターによるフィルインや、トランペットなども入ります。サビでは子供たちがコーラスを聴かせます。

M7「Oronzo cana'」は、最初はNinna Nanna(イタリアの子守唄)風なのですが、途中からはホーンが「ぶんちゃっ」といった感じで入り、古き良き時代のジャズ・ポップス風になっていきます。ゆっくりとしたリズムとメロディが、Amedeoのやさしい歌声とともに、やわらかな雰囲気をだしています。

M8「Il ballo della panza」は、フォーク・ロックにオールド・スタイルで楽しげなブラス・アレンジとコーラスを加えたような感じでしょうか。これもまた、ヨーロッパの小さな田舎町のお祭り風で、にぎやかで、少し浮かれた風なところが楽しいです。こういった曲調にLinoの歌声は合いますね。

M9「Benedetto maledetto mare」は、子供がメインのヴォーカルを取る軽快なポップス。曲調やメロディも、どこか子供向けというか、素直でわかりやすく、楽しい感じがします。

M10「Smile children」は、ボーイ・ソプラノと子供合唱団によるバラード風賛美歌? 最後は「アーメン」コーラスになります。キーボードのオーケストレーションをバックに、ゆったりとした、さわやかで美しいメロディを、あどけない声で歌っています。

全曲をAmedeoが作曲しているとはいえ、企画盤ということもあり、通常のAmedeoのアルバムとはかなり印象が違います。とくに最近のAmedeoは、演奏のほとんどを打ち込みに頼り、プロデュースやアレンジもほとんど自分で行なうという、「Amedeoひとりで大半を完成させた作品」といった感じのものが多いのですが、このアルバムでは人の手による演奏が使われ、アレンジやプロデュースもAmedeo以外の人が行なっています。そのため、Amedeoの最近作よりもずっと人間味にあふれたものになっていると思います。また、曲のあたまや最後などに、LinoとAmedeoの会話が収録されているものもあり、とてもリラックスした雰囲気が漂っています。



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2006/09/27

インドの山奥でっ♪


なぜかはわからないが、妻の職場で突然、

「インドの山奥で修行したのって、誰だっけ?」

問題が勃発し、社内が一時、騒然となったのだそうだ。
むむ、日本語の使い方が変だな。要するに、このテーマでおもいっきり盛り上がったということだ。

なぜ盛り上がったかというと、妻も含め、その場にいた誰一人として、それが「誰」であったかわからない、なにかを思い出しそうな気もするのだけど、けっきょく思い出せないまま、もやもやとした時間と空気に支配されたかららしい。






インドの山奥でっ、しゅぅぎょぉをしてぇ~♪

といえば、もうこれはレインボーマンしかいない。そう教えてやったのだが、妻はレインボーマンを知らないというのだ。聞いたことはあるような気はするのだが、イメージがわかないと。

妻も、妻の職場のスタッフも、自分とそんなに世代が違わないのに、「インドの山奥で修行した」というこれ以上ないヒントが出ているにもかかわらず誰一人として「レインボーマン」を思い出さなかったことにも驚いたが、もっと驚いたのは、いまだに自分、レインボーマンの主題歌ワンコーラスをぜんぶ覚えていたことだ。念のためにインターネットで調べてもみたのだが、歌詞もかんぺき。

さらに驚くべき事実に出会ったのは、歌詞確認調査の過程でインターネットを徘徊しているときだった。ダイバダッタのことだ。

ダイバダッタ... そう、インドの山奥で修行したレインボーマンの師匠である。主題歌の歌詞にも「ダイバダッタの魂宿ぉしー」と歌われているくらいなので、きっと、えらい坊さんかなにかなのだろうと思っていた。

ところがこれが、とんだ思い違い。ダイバダッタ(提婆達多)は釈尊(いわゆる「お釈迦様」ね)の親戚かつ弟子なのだが、えらい坊さんとして天下に名のとどろく釈尊を妬み、釈尊を殺して彼の教団をのっとろうと企てた反逆者・裏切り者として名を残している人らしい。

レインボーマン... なぜダイバダッタのもとで修行をしちゃったんだろう...

ここまできて気がついた。いまだに自分、主題歌ワンコーラスをかんぺきに歌えるのに、なぜレインボーマンはインドの山奥で修行をしたのか、そもそもレインボーマンは、なにを目的に、誰を相手に、どうやって戦っていたのか、そもそも誰かと戦っていたのかも含め、ストーリーについてはなにひとつ覚えていないことに。

おそるべし、レインボーマン。番組を見る者を無の境地へと導いたのかもしれぬ。


YouTubeで主題歌を聴く

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2006/09/26

FEDERICO SALVATORE / DOV'E' L'INDIVIDUO? (2004)

1959年ナポリ生まれ。1980年頃からミュージシャンとして音楽活動を始めていたようです。カンタウトーレとしての活動は1990年代からはじめたようで、1996年にはGiancarlo Bigazzi(ジァンカルロ・ビガッツィ)とともに書いた曲「Sulla porta」でサンレモ音楽祭ビッグ部門に出場し、13位になっています。

これまでに10枚ほどのアルバムがあるらしいFederico Salvatore(フェデリコ・サルヴァトーレ)の、これは現時点での最新アルバムとなりそうです。全部で12曲が収録されていますが、曲のタイプはおおまかに、ロック・カンタウトーレ風、フォーク・ロック風、ジャズ・ポップス風の3つに分けられるでしょうか。

ブックレットの、それぞれの曲の歌詞のところと曲目リストのところに、いろいろな人のコメントが引用されているのですが、その人選がおもしろいです。Giorgio Gaber(ジォルジォ・ガーベル)Fabrizio De Andre'(ファブリツィオ・デ・アンドレ)Boris Vian(ボリス・ヴィアン)といったイタリアの歌手・ミュージシャンだけでなく、Frank Zappa(フランク・ザッパ)Pink Floyd(ピンク・フロイド)の名前もありますし(引用内容はイタリア語で書かれているので自分にはわかりません)、Fernando Pessoa(フェルナンド・ペッソア)というのは詩人でしたっけ? 知らない名前もいっぱいあるのですが、Pulcinella(プルチネッラ)ってのは、イタリアの喜劇(コンメディア・デッラルテ)に登場する道化の役名ですよね?

これらの言葉の引用がこのアルバムや収録曲に対しどういう意味を持っているのかわかりませんが、その人選の幅広さ・おもしろさほど、アルバム自体はおもしろくない感じではあります。おっさんカンタウトーレぽい、よくいえば渋い感じの歌声はそれなりに魅力的ですが、説得力や存在感はそれほどありません。曲も、どれも平均点といった感じで、悪くはないのだけど、突出してよいわけでもありません。

M1「Dov'e' l'individuo?」やM5「Musica leggera」、M7「Nascondi il cuore fra due tette」などはロック・カンタウトーレぽい曲。リズムもシンプルで、ほどよく力強く、軽快な感じではあるけれど、歌メロの歌詞の載せ方が単純な八分音符ではなく、どことなく語りっぽいニュアンスがまじります。

M3「Fra me e l'albero」、M4「L'ateo cristiano」、M10「Il passatista」はウッドベースにピアノ、ブラシを使ったドラムなど、ジャズ・スタイルの演奏にカンタウトーレ風のヴォーカルが乗ったもの。M3では甘いサキソフォン、M4ではブルージーなギターも聴かれます。とくにM4はジャズ・カンタウトーレといった印象が強く、Sergio Cammariere(セルジォ・カンマリエーレ)や、一時のIvano Fossati(イヴァーノ・フォッサーティ)などに通じる部分もあるかもしれません。

M2「Quelli che si lasciano andare」、M6「Sul presepe del 2000」、M9「La lepre」、M11「Voglio un castello di sabbia」などはフォークやポップスの要素が強く感じられますが、やはり歌い方にはカンタウトーレ的な、語りっぽい雰囲気が紛れ込んでいます。M6はガットギターによる弾き語りで、このアルバムのなかではちょっと異色の、ナポリの香りがするもの。M11はアコースティック・ギターの弾き語りによるフォーク風な出だしから、だんだんとキーボードやオーケストラがかぶさっていくという、なかなかドラマティックな構成を持っています。

個人的にはM9が、ちょっと気に入っています。ピアノを中心に、うすくオーケストラも入るカンタウトーレ風なポップスで、歌い方もちょっとリズムをはずしたようなカンタウトーレぽいものなのですが、メロディにイタリアらしい美しさを感じます。とくにサビのあたりはRenato Zero(レナート・ゼロ)を思わせるようななめらかさもあったりします。

というわけで、それなりに楽しんで聴けるのだけど、自分にとってはあくまでも「それなり」な感じでした。


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2006/09/25

イングリッシュ・ジョーク


知り合いのフランス人が教えてくれたイングリッシュ・ジョーク(ちょっとうろ覚え)。

イギリスに遊びに来ていた英語があまり得意ではない中国人(C)が、よそ見をしながら歩いていたところ、道でイギリス人(E)とぶつかってしまいました。

(Bump!)
C: Ah, I'm sorry.
E: Oh, I'm sorry, too.
C: ?? I'm sorry... three...?
E: ??? What sorry for?
C: ???? I'm sorry, five!?
E: ?????
C: ??????

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週末に観た映画

何がジェーンに起ったか?
DVDで。白黒の、古い映画。負い目があるからとはいえ、あまりに行動が中途半端かつ決断の遅いブランチ(姉)にいらいら。でも、ストーリー自体はなかなかおもしろく、哀しい。やはり、こわい話は同時に哀しくないとね。ベティ・デイヴィスの芝居は見ごたえ充分。だけど途中から、声の出し方や表情のつくり方がオセロの松島さんに見えてきちゃったのはなぜ(^^;)?


ラストコンサート
BSで放送されたもの。イタリア・日本合作なのになぜか舞台はフランスで主役はフランス人とイギリス人という設定なのはなぜかしら。古い映画のためか、全体に画面が白っぽく、モンサンミッシェルのあたりのシーンなども埃っぽく見える。ヨーロッパというよりもメキシコなど南米みたいな印象。一部でとても評判のいい映画だけど、自分には合わない。非常にわかりやすい難病系恋愛ものの王道的なストーリー。


箪笥(たんす)
DVDで。劇場でも観たのだけど、ついDVDも買ってしまった。韓国ホラーの多くは自分にとっておもしろくも恐ろしくもないことが多いのだけど、これはなかなかいい。ただ、サイコ・スリラーを中心にゴースト・ストーリーをまぶしてあるのだけれど、できればサイコ・スリラーだけで突っ走ってほしかった。オープニングからエンディングまで、さまざまな伏線・ヒントがちりばめられていて、その多くがきちんとは説明されないため、いろいろに解釈できるのが素敵。また、ストーリーとして表現される「恐怖」のベースにあるのが「哀しみ」であるところが王道的で好印象。近年のホラー映画の多くがビックリ箱系で表面的に驚かそうとしているなか、登場人物と「恐怖」のかかわりが意味のあるものとしてきちんと扱われているのが好ましい。


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2006/09/22

ROBERTO GIGLIO / SEI NASCOLTO (2004)

1972年2月6日ローマ生まれのカンタウトーレ。たぶん、このアルバムがデビュー作だと思います。2003年のサンレモ音楽祭新人部門参加曲「Cento cose」が収録されています。

スキンヘッドなのに、ぜんぜんいかつさを感じないのは、顔立ちが実はとても優しいというか、もしかしてこの人ゲイかもと思わせる、ある種の可愛らしさがあるからでしょうか。声もほんのり甘くかすれた感じで、「スキンヘッド!」からイメージされる力強さや、ある種のパンキッシュなイメージは、彼の曲にはありません。それよりも、どちらかというとMassimo Di Cataldo(マッシモ・ディ・カタルド)などに通じるような、優しげな感じがあります。

曲調は全体的にポップスとロックの中間といった感じで、ミディアムからミディアム・スローなものが多く、比較的淡々としたメロディにシンプルなギターのバッキング、変なSE風に使われるキーボード、といった印象です。大きな盛り上がりなどはないのですが、フレーズには素直でなめらかなものが多く、イタリアン・ポップスらしいといえます。

M1「Sei in ascolto?」ではエレキ・ギターがミュートでミディアム・テンポの8ビートを刻み、M3「A volte zero」ではガチャガチャとコードをかき鳴らされます。リズムはけっこう単調で、シンプルなポップ・ロックになっています。

サンレモ参加曲であるM4「Cento cose」はアコースティック・ギターのストロークが中心で、イタリアらしい感じを持った、やわらかであたたかいポップスです。ただ、バックで使われるキーボードがSE風で、なんだか微妙な感じです。

M5「Terra e mare」はエレキ・ギターのストロークにちりばめられる透明なピアノの響きが印象的。スローなロックで、サビの歌メロとバックのアレンジ、コード進行はノスタルジックな感じです。また、エレキ・ギターが奏でる短い間奏は、ディストーションというよりはファズといった感じのひずみ方で、やはりここもノスタルジック。

またM6「Vai dove vuoi」でもギター・アンプのトレモロ機能を使ったエレキ・ギターの音が懐かしい感じです。最近のアンプに「トレモロ」なんてついてるのでしょうか? 曲そのものはシンプルでわかりやすいやわらかさを持ったイタリアン・ポップスなのですが、バックでシンセサイザーがグニョグニョと鳴っていて、なんかそれが自分はいやです。

M7「D'improviso」とM8「Io mai」は、リフっぽいギターのバッキングとカッティングがちょっといい感じ。とくにM8はサビでシンセサイザーがバックに入り、大きなメロディで一気にスペーシーになります。

ラストのM10「Vivo da me」はゆったりとしたリズムのバラード系で、おだやかなバックのアレンジにオーケストレーションも入り、しっとりとした叙情が漂います。バラード系とはいってもあまり甘さはなく、どことなく寂しげな印象があるところが好ましいです。

これといって突出した曲がなく、またシンセサイザーを変なSE風に使うのが自分の好みからするといまいちなのですが、ほどよくイタリアン・テイストがあり、歌声もほどよく印象的なので、ほどよく楽しめることでしょう。

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2006/09/21

AMMUINA / TUTTO LO SPLENDORE DI UN RESPIRO (2006)

カンパーニア州サレルノ(Salerno)出身のニュー・グループ。このアルバムがデビュー作となります。大雑把にジャンル分けをすれば「ロック・グループ」となるのですが、いわゆる元気でやかましいロックンロールといったタイプではなく、憂鬱なアートを感じさせるような、たとえば音の感じはちがいますがDavid Sylvian(デヴィッド・シルヴィアン)などにも通じるようなニューウェーヴ系のものです。ジャズでもクラシックでも歌ものポップスでもないから、とりあえずロックにしておこう、といった感じでしょうか。

多用されるエレキ・ギターのクリーン・トーン。滴り落ちる水滴のように透明なピアノの響き。それらが水面に広がる波紋のように交わっていきます。どこか静謐で神聖にさえ感じられる瞬間を持ったギターとピアノのうしろでは、厚みのあるドラムとベースが力強いリズムを刻みます。そして、少し喉を絞められたような声で、淡い狂気と哀しみを秘めて搾り出されるかのごとく歌われるヴォーカル。このヴォーカルがときに、いびつな浮遊感と高揚感を持つのですが、そのときの様は初期のAlan Sorrenti(アラン・ソッレンティ)を髣髴させます。

盛り上がりの少ない淡々としたメロディ構成の曲が多く、バックの演奏も派手なドラマティックさなどはないのですが、ヴォーカルを含めたメロディ楽器の持つある種の静けさとリズム・セクションの力強さの対比が心地よく感じられます。サビなどの部分で効果的にコーラスが使われる曲や、シンセサイザーがファンタジックなオーケストレーションを演出する曲もあります。また、オーヴァードライヴで甘くひずませたエレキ・ギターが丸く伸びやかなフレーズを奏でるパートなど、Genesis(ジェネシス)England(イングランド)といったシンフォニック・プログレッシヴを思い起こさせますし、クリーン・トーンのエレキ・ギターによるアルペジオにシンセサイザーが薄くかぶるところなどではPink Floyd(ピンク・フロイド)などに通じる匂いも感じます。

イタリアのあるウェブサイトでは、彼らのサウンドからインスピレーションを感じるアーティストとして、Afterhours(アフテルアワーズ)Carmen Consoli(カルメン・コンソリ)Fabrizio De Andre'(ファブリツィオ・デ・アンドレ)Subsonica(スブソニカ)Pink FloydChopin(ショパン)の名をあげているのですが、なんとなくなるほどと思います。


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2006/09/20

DANIELE STEFANI / ADESSO O MAI

を聴きながら出勤しようと思って愛用のポータブルプレイヤーにCDを入れて家を出たのだけど、プレイボタンを押してもなぜか曲が始まらない。おかしいなぁと思ってリモコンのディスプレイを見ると「no disc」の文字。あれあれぇ、CDいれずに持ってきちゃったのかなぁとプレイヤーを明けてみると、そこにはCDがちゃんと入ってる。あらためてプレイボタンを押したけど、やはり表示されるのは「no disc」... なぜだ? 家にあるプレイヤーではちゃんと聴けたはずなのに。

そんなわけで今朝は音なしでした。

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2006/09/19

週末に観た映画


■ファースト・ナイト■
たぶん、BSで放送されたもの。舞台の初日をひかえてナーバスになった女優の妄想が公開リハのあとに劇場前で自動車事故にあって死んだファンの少女の幽霊を生み出したお話? 役づくりへのプレッシャーがゴーストを呼び、過度のアルコールがそれを振り払った、ということなのかしら? なんだかよくわからなかった。

ポゼッション
10年以上前に地上波で夜中に放送されたもののヴィデオテープが残ってたので、ひさしぶりに。イザベル・アジャーニが非常に美しく、非常におそろしい。地下鉄の構内で牛乳をぶちまきながら暴れる様は圧巻。物語自体は、よくわからない。夫の長期単身赴任で情緒的に不安定になった妻の妄想が生み出した怪物のお話? ラストシーンはなにかの暗示に満ちているのだけど、それが示すものが自分にはわからなかった。


■ゴシック■
10年以上前に地上波で夜中に放送されたもののヴィデオテープが残ってたので、ひさしぶりに。監督はケン・ラッセル。たぶん、DVDになってない。詩人のバイロン邸に集まった、バイロンの友人で詩人のシェリーとその愛人メアリー(のちに妻となる)、メアリーの妹、医者のポリドリが、アヘンと嵐、幽霊小説、そして自らの中に持つ恐怖の作用で、狂気的な恐ろしい一夜を過ごすというお話。実話を含んだフィクションのようで、この夜がきっかけとなってメアリーは『フランケンシュタイン』を書き、ポリドリは『ヴァンパイア』を書いたのだそうだ。ストーリー的にはあまりに幻想的で、観る側も薬(アヘン)を服用したかのような精神状態にならないとついていけない感じはする。

ロマノフ王朝の最期
10年以上前に地上波で夜中に放送されたもののヴィデオテープが残ってたので、ひさしぶりに。ロシア氏に名を残す有名な怪僧ラスプーチンの話。なぜラスプーチンがあそこまで皇室の信頼を得ることができたのかについての描写がないので、どうも釈然としない。皇太子かなにかが難病で、ラスプーチンだけがそれを癒すことができたんだったっけ? まぁ、その辺は「一般的な教養人であれば当然知っているべき知識」なので、あえて描く必要なしということなのでしょう。自分にとってのこのあたりの歴史知識は池田理代子のコミック『オルフェウスの窓』がベースだったりするもので(^^;)、ユスーポフ侯はもう少し美青年のほうが良かったな。あと、日本語吹き替えがとても違和感。ラスプーチンの声としゃべり方が、なんかイメージと違う気がする。やはり外国映画は原語+字幕で観たい。


イノセント
地上波で夜中に放送されたのだったかな。それともBS? ルキノ・ヴィスコンティ監督作品らしい。貴族階級の夫婦を中心にした身勝手な愛憎と破滅の物語。登場人物の誰にも感情移入できず。ストーリーの中心となる夫婦のどちらもが非常にわかりやすく身勝手で、その「自分の気持ちに忠実」さ加減がまるで子供のようにイノセント。だから子供は嫌い。そのうえ、大人の狡猾さや世間体なども入ってきて、なんだかとっても嫌な感じが残ってしまった。セットや風景等の映像はとてもきれいなのだけどね。


ノートルダムのせむし男
DVDで。1939年の白黒映画。身勝手な伯爵と身勝手なジプシー女を中心にした愛憎と破滅の物語。クライマックスにおけるカジモドの反撃シーン、あれはやりすぎだろう、いくら理由があったとはいえ、あんなに死傷者を出したらカジモドもただではすまないだろう、と思ってしまうのだけど、あの時代で場所が教会だとそんなこともないのかな。なかなかおもしろかった。国王がヨボヨボすぎ。


阿弥陀堂だより
BSで放送されたもの。とくにこれといった物語も盛り上がりも事件もなく、淡々と終わっていきました。長野県の広報映画ですか?


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2006/09/15

自分の判断と責任を、どんどん放棄していく

ドライバーが酒を飲んでいるかどうかを感知して、酒気帯びの場合はエンジンがかからないクルマというのを自動車メーカーが開発中なのだそうだ。

酒を飲むと、判断力や瞬発力、感応力が低下し、平常時であれば回避できるようなアクシデントを回避できなくなる。さらには、平常時であれば起こし得ないような事故を起こすケースも多い。

だから、酒を飲んだらクルマを運転してはダメなんだ。
他人にとって、自分にとって、危険が及ぶ可能性がきわめて高いから。

多くのドライバーは、このことをわかっている。わかっていながら、自分だけは大丈夫と、甘い判断で酒気帯び運転をし、事故を起こす。あるいは、そもそも充分な判断力すら持たないままにクルマを操り、大きな事故を起こす。

ならば、もうドライバー自身に判断させるのはやめよう、人間は信用できない、それよりも、クルマに、コンピュータに、調べさせ、判断させよう、ということなのだろう。

酒を飲んだら運転しない。基準は「酔って」いるかどうかではなく、「飲んだ」かどうか。たったこれだけのこと。理性的に考えれば充分判断できることなのに、人間がそれを自分でしようとしないから、機械にまかせる。

アルコールを感知したらエンジンがかからなくなるクルマは、おそらく、そう遠くないうちに実現するのだろう。そして自分が「酒気帯び」かどうかの判断を、機械にまかせてしまう人も出てくるだろう。そういったクルマが普及・一般化したときには、仮にコンピュータに一時的なトラブルやエラーがあって「酒気帯び」を見逃してしまい、事故につながったときも、「だって、コンピュータがOKっていったのだもの」と言い訳をするのだろう。

こうして人は、自分の判断と責任を、どんどん放棄していく。
すでにいろいろな場面で、自分の責任で判断することが放棄されているので、そこにあらたな一場面が加わるだけといえば、それはそうなのだけど。

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2006/09/14

曼珠沙華の季節なのだけど

なんだか寒いです。ずっと雨です。具合悪いです。

毎年、この時期は曼珠沙華を見に
(という名目でピクニックランチ・ワインつきを楽しみに)
巾着田に行くのだけど、
せっかくの三連休も雨のようだし、
ここのところずっと気温が低いので
曼珠沙華の開花も遅れているようだし。
月末ごろのほうが見ごろかもなぁ。

しかし、雨降ってる。
今週はもう、ずっと雨みたい。
雨が続くと、体調悪いのですよ、自分。
しかも最近、めずらしく真面目に仕事をしてて、
めずらしく連日残業2時間半から3時間なんて日々。
通常は、しても1時間半なのに。

そんなこともあってか、
先週末は急に激しい胃痛に襲われ夜も眠れず、
楽しみにしていたItalo pop festaも
かろうじて自分担当のプレゼンテーションまでは耐えたけど、
その日のいちばんの目玉であったFabrizio De Andre'特集は
聴かずに早退しちゃいました。
だって、胃が痛かったんだもん。

胃薬を飲んで、
アルコールを控えて、
意識して早めに就寝するようにして、
いまはほとんどよくなったけれど、
でもまだかすかに違和感が残ってる。
ちょっと多く食べたり飲んだりすると、
すぐに胃から
「また痛くしたろか、コラァ!」
という脅しが聞こえてくる感じ。
日常生活のなかで「内臓の存在」を感じるのって、
やはり具合が悪いからなのだよなぁ。

そして、雨。

最近よかった腰痛も、
また少し悪くなろうとしている気配。
降りやまない雨のせいなのか、
長時間のデスクワークのせいなのか。
いずれにしろ自分の身体は、
真面目に仕事をすることには向いてない。

夏休みまであと2か月(夏じゃないじゃん)。
気力と体力が、
気分と体が、
持ち直してくれるといいのだけど。

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2006/09/12

なんて男っとこ前な!

あんた、かっこいいよ!

待ってなボウズ!今助けに行く
http://pya.cc/pyaimg/pimg.php?imgid=32441

この続き↓も忘れずに(^^)。
http://pya.cc/pyaimg/pimg.php?imgid=182

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LUCA BASSANESE / AL MERCATO (2006)

1975年12月18日ヴィチェンツァ(Vicenza)生まれの新人カンタウトーレ、Luca Bassanese(ルーカ・バッサネーゼ)のデビュー・アルバムです。シングル・デビュー自体は2005年9月に果たしていますが、それにしても30歳での新人デビュー。いかにもイタリアらしい感じです。

そして、彼が奏でる音楽が、やはりイタリアらしいというか、なんというか。いわゆる「ポップス」ではなく、フォーク・ロック系の曲なのですが、簡単にフォーク・ロックとひとことでは済ませにくい、ラテンやトラッドやジャズなどの風味が入り混じった興味深いアコースティック・ミュージックになっています。しかも、地味。でも、ただ地味なだけでなく、味わい深い。こういった音楽が、いわゆるメイン・ストリームである売れ線とは少し距離を置いた新人のアルバムの中にぽろぽろと見つかるところに、イタリアのポピュラー・ミュージックが持つ奥行きの深さを感じます。

自分はイタリア語がわからないので歌詞の内容も理解できないのですが、この『Al mercato (市場にて)』は、なんらかのコンセプト・アルバムらしいです。田舎の城下町と思われる、布に描いた絵のようなジャケット・アートも印象的ですが、歌詞カードの中央ページには子供が描いたと思われるイラストが多数掲載されていて、ここもなんだか意味ありげです。

アコースティック・ギターのアルペジオにのって子供が独唱するM1「I pesci」や、おじさんがなにかをしゃべってるだけといった感じのM7「Nina」、ア・カペラのM10「Terra adorata」といった変化球もありますが、基本は古いタイプのカンタウトーレ系音楽にラテン&ジャズ・フレーバーをまぶした感じ、といったところでしょうか。M3「La luz de un novo dia」や、Fabrizio De Andre'(ファブリツィオ・デ・アンドレ)のカバーであるM9「Il Bombarolo」などでは、ヨーロッパの古い田舎町で行なわれる祝祭の音楽といったイメージも浮かびます。

また、ガット・ギターと鉄琴のやわらかな響きがほどよく小洒落た感じのM4「Il Destino」、ラテンの哀愁漂うアコーディオンと重たいリズムをバックにした、いなたいトラッド・ロック風のM5「Salta x l'indignazione」、ぶんちゃっぶんちゃっというピアノのリズムが気持ちのいいジャズ・ポップス風のM8「L'Indifferenza」などは、派手さはないけれど愛すべき曲と感じます。

個人的に気に入ったのは、ラテンやタンゴの雰囲気をふりまくアコースティック・ギターとアコーディオンにのってエキゾティックに歌われるM2「Al Mercato」と、ピアノのアルペジオにのって歌われる、やさしげで可愛らしいM6「Canzone di Marta」。とくにM6は、途中からアコースティック・ギターやホイッスル、アコーディオン、コーラスも入り、地味だけれども味わい深いカンタウトーレ作品になっています。

アルバム・リリース以降、地元ヴィチェンツァを中心に積極的にコンサートを行なっているようですが、たぶん、イタリアのヒット・チャートに上がってくるような人気歌手にはなれないでしょう。でも、こういった、地味だけど味のあるフォーク・ロックというのは、やはり「イタリアのポピュラー・ミュージック/カンタウトーレ作品」を楽しむうえでの重要な構成要素だと思います。そしてLucaのこのアルバムは、その点で充分に「イタリアン・ミュージックの魅力の一端」を聴かせてくれているといえるでしょう。ここに、もっとわかりやすいキャッチーさや、ある種の奇抜さのようなものが加わると、もしかしたらSimone Cristicchi(シモーネ・クリスティッキ)のようになるのかもしれないなぁ。

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2006/09/11

見てはいけない何かが映っていたのかしら... ぞぞぉ~

少し前に夜中に地上波で放送された『怪談新耳袋 劇場版』という映画を録画してあったので、観たのです。ショートストーリー8話からなるオムニバス映画で、なんとなく「世にも奇妙な物語」風? 前半はとくに怖いということもなく、終わり方のスッキリしない、だからなんなんだよといった話も多く、まぁ、こんなもんかなぁと思いながら観ていたのです。以下、ところどころネタばれを含みますが、たとえば「姿見」の最後に走ってくる子供?なんて、ちょっとビックリはするものの、冷静に画面を見ると爆笑です。この子は『呪怨』のトシオ君のお友達かしら。

それでも6話めの「視線」は、ありがちといえばありがちなのだけど、いやぁな感じが画面に漂ってて、やっと怪談、というかホラー映画らしくなってきました。こういう、画面のなかからだんだん近づいてくるスタイルというのは、いまや世界中のホラー映画ファンが知っている(のか?)「貞子」系ですね。貞子系は、来るとわかっていても、やっぱりちょっと怖いです。

そして続く7話目の「約束」。以下、激しくネタばれです。

名前を呼ばれるから、必ず返事をしろ、これは約束だぞ... 謎の言葉とともに叔父の家の留守番を引き受けた浩之。その家ではどこからともなく叔父の名を呼ぶ女性の声がし、「はい」と返事をしないと呼び続ける。ただし、返事さえすれば、その日はもう呼ばない。名前を呼ばれるのは1日1回。これがルールだと浩之は思っていた。ある日、意中の若い女性を留守番中の叔父宅に招いた浩之。夜も更け、彼女といい雰囲気になったところで、名前を呼ぶ声。「はい」と返事をし、今日の分はこれで終了と安心して彼女との甘い時間を続けようとしたところ、また名前を呼ぶ声。なぜだ? 今日の分の返事はすんでいるはずなのに。いままでこんなことはなかった。これまでと違うのは、ここに「彼女」がいるということ。にわかに不安になった浩之は、「声」への返事をあとまわしに、この部屋に泊まる気になっていた彼女を必死に帰らせようとします。その間も名前を呼び続ける声。やっと彼女を部屋から出し、あらためて「声」のほうへ振り向いたとき、そこには...

ここで突然、テレビ画面が砂嵐になってしまったのです。

最初は、こういう演出なのかと思いました。しかし、このあと約10分に渡って砂嵐が続きます。録画の終了時間設定を間違えたのかとも思いましたが、ハードディスクレコーダーのカウンタは同じタイトルナンバーのままタイム計測が進んでいます。そして10分後、何事もなかったかのように烏丸せつこの姿が映し出され、いつのまにか最終話の「ヒサオ」が始まっていました。

なに? どういうこと?

砂嵐になる直前、一瞬ですが、画面に何か、枯れ草の吹き溜まりのようなところに立つ、人の足首のようなものが映ったのです。そして突然の砂嵐。映画のエンディングロールのなかには、浩之が何か巨大な化け物のようなものに向き合っているシーンがありました。きっとあのあと、このシーンがあったはずなのです。なのに、砂嵐... いまにも貞子が出てきそうです。

うわぁぁぁぁ。こわいよぉ。

なぜ、突然に砂嵐? 何か「映してはいけないもの」があったのでしょうか。でも、番組中にそれに関するテロップ等は出ませんでした。なぜ? なぜ?? もしやテレビが、あるいはハードディスクレコーダーが、自分で判断して録画を消した? きゃぁ、呪われるぅぅぅぅ。










調べてみたところ、放送のあった日に一部地域で放送事故があり、5~10分にわたってすべてのチャンネルが砂嵐になっていたようです。よかった。呪いじゃなかった。

ホラーストーリーのクライマックスでの突然の砂嵐。お話そのものよりも、このほうがよっぽど怖いです。ヴィデオ録画されたものの一部がなぜか消去されてるのも、かなりこわいですが、これ、放送はたしか夜中の2時くらいからだったと思います。生で観ていた人はきっと、思いっきりびびったことでしょう。

で、けっきょく浩之はどうなったのだろう? 気になる。



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2006/09/08

ANDREA ORI (2006)


1977年11月6日ミラノ近郊デシオ(Desio)生まれで、2006年のサンレモ音楽祭新人部門に参加し、早い段階で選考から落ちたAndrea Ori(アンドレア・オリ)のデビュー・アルバムです。サンレモ参加曲はこれといって聴きどころのないつまらないものでしたが、アルバムのほうは力強いロックが多く収録されていて、それなりに楽しめます。

M1「Oggi no」は冒頭から厚みのある力強いロック・リズムが重く響き、ひび割れたというよりは喉になにか絡まったような感じの少し濁った歌声とよく合います。途中には美しいスロー・パートが入り、アクセントの役割を果たしています。こういったミドル・テンポのロック・チューンが、彼の持ち味のように感じます。

M2「Nel tuo mare」は2006年のサンレモ音楽祭参加曲。スケール感のあるバラード路線を狙ったのかもしれませんが、メロディも構成も展開も単調かつ平凡で、ぜんぜん印象に残りません。2006年のサンレモ参加曲のなかでもかなりつまらない部類に入る曲でしたが、このアルバムのなかでもかなりつまらない曲だと思います。だけどシングル・カットされてるんだよな。

M3「Non li spengo」は重たいリズムに乗って歌われるスローなロック。やはりこういう曲のほうがAndreaのヴォーカルには合います。濁った感じの力強い歌声と、ブルージーなギター。この曲に限りませんが、Andreaのロックにはイタリアの匂いはほとんどせず、イギリスのロック・シンガーのような重さがあります。

M4「Nel mio mondo」もミディアム・スローのロック。クセのあるヴォーカルが歌い上げるメロディ・ラインは美しいのだけど、その美しさはやはりイタリアのものではないように感じます。

M5「Forse era meglio」も力強いロック・チューン。ここまでの曲はソロのロック・シンガーのものといった印象が強かったのですが、この曲はエレキ・ギターのリフやアレンジなどがとてもバンド風です。

M6「Dove vai」はアコースティック・ギターの弾き語りによるロック・バラード。これまでのように力いっぱい歌い上げるのではなく、声の濁り具合はそのままですが、いくぶん楽な感じで、やさしく歌っています。それがほんのりとセンチメンタルな雰囲気を漂わせます。

このあたりからアルバムの性格が変わってくるようで、前半の、いかにもロック的な力強さが後退し、後半はロック系カンタウトーレ的な味わいになってきます。

M7「Con qualcosa di piu'」はピアノとギターの弾き語り風に始まります。序盤は抑えた感じですが、サビに向けてリズムやオーケストラが入り、スケール感のあるバラードへと展開します。非常にロック・カンタウトーレぽい曲ですが、バックの演奏の中(とくにギター)にわずかにプログレッシヴ・ロックの匂いがするように感じるのは、気のせいでしょうか。

M8「C'e' ancora」はミディアム・テンポのロック・カンタウトーレぽい曲。

そしてアルバム最後を飾るM9「In paradiso」。ミディアム・スローなロック・カンタウトーレ曲ですが、ほんのりとアイリッシュ・トラッドのエッセンスが混ぜ込まれています。Andreaのクセのある歌声とあいまって、寂しげな哀愁が漂います。その一方で夕日の落ちるサバンナを思い起こさせるようなリズムもちりばめられていて、ヨーロッパの街角でアフリカのスパイスや小物、衣料品などを売っている小さな店を見つけたようなエキゾティズムも感じます。

英米ロック色の強い前半と、ロック・カンタウトーレ色の強い後半とで、ずいぶん印象が違う感じのアルバムですが、自分は後半の作風のほうが好きです。歌メロの魅力がちょっと薄い感じですが、クセのある声と力強い歌い方でその分をカバーしているといっていいでしょう。今後はどっちの色合いを強めていくのかわかりませんが、どちらにいくにしろ、曲作りのなかにもう少し上手にキャッチーさを混ぜ込めるようになるといいなと思います。

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2006/09/07

RICCARDO SINIGALLIA / INCONTRI A META' STRADA (2006)

Riccardo Sinigallia(リッカルド・スィニガッリァ)は、元Tiromancino(ティロマンチーノ)の主要メンバーだった人だそうです。 2003年に『Riccardo Sinigallia』でソロ・デビューし、この『Incontri a meta' strada』はセカンド・アルバムになります。

これ、紹介しにくい作品だ。とてもアンビエントな印象を持ったアルバムです。水面に広がる波紋のように透明でやわらかなピアノ、おだやかにつづられるシンプルな歌メロ、けっして歌い上げることのないヴォーカル。この3つの要素を中心に、静かに、ある意味淡々と、同タイプの曲が連なります。ところどころでリズムの入った曲もあるのですが、全体の印象は透明で、どこか幻想的。1曲ごとを切り出して聴くのではなく、10曲40分のアルバムを通して、曲同士の流れやつながりに身をまかせ、空間に広がっていく音の中でたゆたうことで、じんわりと良さが身体にしみこんでくるタイプのアルバムでしょう。

たとえば一時期のBraian Eno(ブライアン・イーノ)Holger Czukay(ホルガー・チューカイ)のような、あるいはCocteau Twins(コクトー・ツインズ)や、さらにはウィンダム・ヒルのような要素もあり、また幻想フォーク風な部分もあります。M9「Impressioni da un'ecografia」などでは初期のAlan Sorrenti(アラン・ソッレンティ)を思わせる浮遊感と高揚感もあったりします。いわゆる「ポップス」「ロック」とはちょっと違った、耽美な雰囲気を漂わせる音楽なので、聴き手を選ぶとは思いますが、なかなか気持ちのいい作品です。

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2006/09/06

STEFANO PIRO / NOTTURNO ROZZ (2006)

東京で毎月開催されているItalo pop festaの、2005年10月の会に出席された方のなかには、当時、六本木のイタリアン・レストランでバリスタとして働いていた、日本語をまったく話さないイタリア人、Mirko(ミルコ)さんを覚えている人もいるでしょう。そう、2000年のサンレモ音楽祭新人部門に参加して批評家賞を受賞したLythium(リチウム)のベーシストだった彼です。

Lythium自体はサンレモ後にアルバムを1枚リリースして解散してしまったようで、その後のメンバーの消息は、ベースのMirko Virgini(ミルコ・ヴィルジーニ)が六本木でバリスタになっていた(笑)ことくらいしか知らなかったのですが、リーダーでヴォーカリストだったStefano Piro(ステーファノ・ピロ)はソリストとしての活動準備を着々と進めていたようで、2006年にソロとしてのデビュー作をリリースしました。それが『Notturno rozz』です。

Lythiumのアルバムは聴いたことがないのですが、サンレモ参加曲の「Noel」はPiccola Orchestra Avion Travel(ピッコラ・オルケストラ・アヴィオン・トラヴェル)を思わせるような、ちょっとアーティスティックで妖しい魅力を漂わせたラテン/タンゴ・テイストのあるロックといった感じだったと記憶しています。そういった音楽性はリーダーであったStefanoの持ち味だったのか、Stefanoのこのアルバムも、ロックのような、ジャズのような、ラテンのような、タンゴのような、フォークのような、妖しくもアーティスティックなテイストにあふれています。

David Sylvian(デヴィッド・シルヴィアン)に代表されるような、陰鬱で引きずるような歌声。疲れた大人たちが集まるピアノ・バーで歌われていそうな、けだるいジャズ・ヴォーカル風の曲があるかと思えば、フルートやオーケストラが幻想への逃避を促すようなシンフォニック風アレンジがあったり、オルガンの響きが懐かしいロック・サウンドを奏でたり、フィザルモニカ(アコーディオン)やトランペットがラテンの妖艶なエキゾティズムを漂わせたり。

こういう音楽はいったい誰が聴くのでしょう。プログレッシヴの匂いもするけれど、プログレッシヴ・ロックじゃない。ラテンの匂いもあれば、ロックやフォークやトラッドの匂いもあるけれど、そのどれでもない。いろんなものがミクスチャーされてます。やはり、プログレ耐性のあるポップス/ロック・ファンになるのかしら。

ただ、残念なのは、演奏やアレンジのアイデアなどはなかなか興味深いのだけど、ヴォーカルそのものにはあまり表現力がないうえに、歌メロも抑揚のないタイプなので、ヴォーカル曲としての印象がほとんど残らないことでしょうか。これ、もっとうまい人がうたっていたならなぁと思います。

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2006/09/05

RAF / PASSEGGERI DISTRATTI (2006)


Raf(ラフ)は、1980年代中ごろにデビューし、いまも現役のベテラン・シンガー。アルバムもコンスタントにリリースしているのでそれなりのディスコグラフィがあるのですが、自分は数枚しか聴いたことがありません。Ron(ロン)などと同様で、有名だし、悪くないんだけど、あんまり強い興味をもてないカンタウトーレのひとりです。アルファベート3文字の名前がいけないのか(ちがうちがう)。

自分のなかでのRafの印象は、もっとロック色の強い感じだったのですが、このアルバムは落ち着いた感じの曲が多く、Rafのことをよく知る人がいうには、印象としては初期の頃に近い感じなのだとか。

M1「Salta piu' alto」のキーボードの音は、なんか懐かしい感じがします。1990年代の終わりから2000年代はじめくらいのアメリカとかのロック・グループって、こんなような音をだすキーボーディストが多かったような気が(むかしのことなので記憶が曖昧だけど)。途中でラップも入る軽快なポップス。

M2「Dimentica」ではゆったりとしたエイト・ビートがきざまれ、古いブリティッシュ・ポップ・ロックを思わせる、ほどよくノスタルジックなメロディが奏でられます。ここ数年のイタリアの若いポップ・ロック系グループなどによく聴かれるタイプのバラードですね。

M3「Passeggeri distratti」で聴かれる、エレクトリック・アコースティック・ギターのコード・ストロークはいい音だな。ミディアム・スローのポップ・ロックで、ときどき耳に届くエレクトリック・ピアノの音色や転調のしかたが都会風のしゃれた感じを出しています。歌メロ自体はキャッチが弱いかも。

M4「Il nodo」はヴォーカル・パート前半の、いくぶん字余り気味に言葉が発せられる感じがカンタウトーレ風で、自分好みです。サビではなめらかなメロディにオーケストラも入り、ほどよく切なく、やわらかに美しく盛り上がります。途中でラップもはさまれますが、ラップにもなぜかほんのり哀愁が漂うのがイタリアらしいですね。曲そのものとしては、どちらかというと素直でありがちなものだけれど、やわらかなノスタルジーとセンチメンタルが心地よく響きます。

M5「Onde」では、ピッチカート風のギターと単純なドラムのリズムに乗った歌が、のんびりとした楽しさ、やさしさ、あたたかさを感じさせます。後半部ではリズム隊が引いて落ち着いた雰囲気に変わった中にピアノが美しく響き、曲の印象に変化を与えます。

M6「Nati ieri」のヴォーカル・パート前半はラップらしい?ラップ。イタリアのラップは、メロディなしでリズミカルにつむぎ出される言葉(ヴォーカル)のうしろでは美しいメロディが奏でられているといったケースが多いように思うのですが、この曲のラップ・パートはどこにもメロディを感じないという点で、アメリカなどのラップに近いように思います。しかしヴォーカル・パート後半に入ると言葉にメロディがつき、イタリアン・ポップスらしい、なめらかで美しいものになっていきます。

M7「Acqua」は、フォーク・タッチになったPaolo Vallesi(パオロ・ヴァッレージ)風といった感じでしょうか。最後はオーケストラも入り、美しく、ノスタルジックに、ロマンティックになります。ただ、歌メロ自体は比較的平板で、盛り上がりには欠けるかも。

M8「Se passerai di qui」ではミュートをつけたトランペットやクリーン・トーンで奏でられるエレキ・ギター(セミアコかも)などが入り、ジャジーな雰囲気を漂わせています。比較的メロディの淡々としたスローな曲ですが、サビでちょっと情熱的になる盛り上がり方は、イタリアぽいといえばイタリアぽくもあり、その表現手段としてファルセットを入れたりするあたりはジャズ/ソウルぽくもあり。

M9「Mondi paralleli」はリズムの強調されたスローな曲。ほんのりした哀愁とドラマチックさをまとっていますが、その感じは最近の洗練されたものというよりは、古い歌謡曲的なある種のノスタルジーを思い起こさせます。ここでのRafのヴォーカルは少し醒めた感じがして、誰かの歌い方に似ているような気がするのだけど、それが誰だったか思い出せません...

全体に落ち着いた雰囲気とおだやかな印象があり、ほどよいノスタルジーをちりばめつつロマンティックとセンチメンタルを身にまとったといった感じです。クセが強いとはいえないけれど、あっさりしているともいえない程度にほどよく個性のあるヴォーカルや、派手ではないけれど、地味というには厚みもあるし手もかかっている演奏・アレンジなど、いろいろな意味で「ほどよい加減」に仕上がっていて、聴きやすく楽しみやすい作品になっているといえるでしょう。自分の好みをいうならば、これでもっと歌メロの構成に抑揚があればなぁとは思いますけれど。



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2006/09/01

あなたには射さらないかもしれないけれど、おいらに刺さるんだよ

最近は日傘をさす女性が増えてきましたね。美しい肌を紫外線から守るため、それとも、多分にファッション・流行的要素も強いのかな。

日傘をさすこと自体はべつにどうでもいいのだけど、ささない自分からすると、ちょっと困ったなぁということもあります。

たとえば友人同士なのでしょうか、日傘をさした若い女性のふたり連れ。ふたりが並んで日傘をさすと、それだけでけっこう広い歩道の横幅いっぱいになってしまうんです。

傘をさすことで人一人が占有する横スペースは、傘をささないときの約2倍。ふたり並べば4倍です。通常であれば4~5人が楽に行き来できる広い歩道が、たったふたりの日傘女性に占有されてしまいます。しかも、なにやら楽しそうにしゃべりながらふたりの世界に入り込んでゆっくり歩いていたりした日には、追い抜きたいのに傘に阻まれ抜けずにいるちょっといらいらした人たちの列が彼女らのうしろにずらっとできてたり。

しかも、小柄な女性も多く、そんな彼女らの持つ日傘は、広げた先の骨の位置がちょうどおいらの顔の高さくらい。歩道いっぱいに広がったふたりの日傘をちょっと無理して追い抜こうとすると、骨が顔のあたりに当たります。うっかりすると骨が目に刺さりそうで怖いのです。

雨の日であれば、こちらも傘をさしているので、自分の傘で相手の傘を防御したりできます。でも、日傘の場合、こちらは丸腰。しかも、歩道はふたつの日傘に占有されていても、日傘の下、日傘をさしている当のふたりの周囲にはスペースがあるものだから、自分たちが歩道をふさいでいることに気づいていないのか、気にしないのか、追い抜こうとする人の気配を感じても“傘を”よけてあげようというアクションがほとんどないのです。身体はよけようとしてくれるのですが、傘の位置が変わらないので、意味がない。なので、手で顔や目のあたりをガードしながら、傘が手や顔に刺さるかもしれないという恐怖におびえながら、追い抜いていくわけです。

しゃれた、あるいは可愛らしい日傘をさした女性、素敵です。でも、日傘をさすことで、あなたには陽が射さらないかもしれないけれど、おいらにはあなたの傘の骨が刺さるんです。

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