« 2005年2月13日 - 2005年2月19日 | トップページ | 2005年2月27日 - 2005年3月5日 »

2005年2月20日 - 2005年2月26日

2005/02/25

がんばれ!イデアル

本格的なフレンチを、きちんとしたサービスで、しかも手ごろな価格でランチに食べられ、思いっきりお気に入りのビストロ・イデアル(神楽坂)が、経営者の方針変更により今週からはランチがパスタのみになってしまいました。

めちゃめちゃ哀しいことですが、あの席数(14席だったか)で満席率が60~70%程度、客単価が1600円(いちばん安いコース)~2000円程度で、あの様子だと2時間のランチ時間での客席回転率は1.5くらいだろうから、多めに見積もってもランチの売上げが3万円程度。それでキッチン2人とホール2人では、たしかに経営的に苦しい部分はあるだろうな。

その辺の事情は、自分もまがりなりにもレストラン出身ですから、想像はできます。なので、よりカジュアルな料理を提供(客単価をさげて、提供時間を早くして、客席回転率を上げる)という方向を試してみるのも、悪くはないでしょう。

ちなみにイデアルのウェブサイトには「サービス形態変更のお知らせ」がありまして、そこには、お客からヒアリングした結果見つかった改善点のうちの最重要課題として、

1.気軽さが足りない(無い)
2.料理の提供時間が長い
3.ディナーの閉店時間が早い(現在21:30)
4.ワインの品揃えが偏っている
5.客席が少ない

があげられています。ランチで問題になるのはこのうちの1,2,5ですが、1,2に対する具体的な対策として、

1.ラフでフレンドリーなサービスと親しみやすいお店作りに
2.前菜、主菜などコースでお一人お一人に順番にお出しするのではなくワイン バーのように一皿を皆様でシェアしながら召し上がって頂き、出来上がったお料理の順にお出しするスタイル。

を宣言。そして、

> ランチタイムは2月21(月)よりパスタをメインにしたランチメニューに変更

という営業方針を打ち出したわけです。

ラフでフレンドリーなサービスはいいでしょう。できた順に料理を出してみんなでシェアというのもいいでしょう。でも、パスタをメインにしたランチっていう考えは、いったいどこから出てきたんだろう? 「サービス形態変更のお知らせ」のところには、

> 当初考えておりました「気軽に本格的なフレンチを」を更に進めるためにサービス形態を変更

と書いてあるのだけど、パスタって「本格的なフレンチ」じゃないじゃん。

それでも、これまでたくさんの美味しい料理を食べさせてもらったし、ホールのスタッフさんから気持ちのいいサービスをたくさん受けてきた自分です。ランチがパスタになったからってイデアルを見捨てたりはしません。ということで、食べてきましたさ、パスタランチ。

哀しい。

メニューはパスタ2種類からどちらかを選ぶだけ(昨日はボロネーゼかイカとアンチョビのパスタ)。サラダ、デザート、ドリンクつきで998円。料金的にはこのあたりの相場でしょう。

しかし、です。

美味しくないのです。麺そのものが。味付けがどうのというのではなく、パスタの麺自体の茹で方、扱い方が、うまくないのです。

乾麺を使っていることはいいにしても、麺が5~6本くっついて硬い束になっているようなものを出しちゃだめです。また、あんなに水分の少ないパサついたパスタ麺をレストランで食べたのはひさしぶり。茹でたあとの調理時の茹で汁の加え加減がうまくいってないのでしょう。そして、あれほど繊細で素材の旨みを上手に活かした料理を出してくれていた店なのに、やたらと油っぽく塩気やペッパーの辛さが雑で大雑把な味付け。

申し訳ないけれど、バリラの乾麺を使って家で自分でつくったほうが数倍美味しいです。ジョナサンで食べたほうがよっぽど美味しいです。

突然のランチの業態変更は、常連のお客にとってもびっくりだったけど(昨日も知らずに来店した常連さんにメートルのO氏が頭を下げてた)、現場のスタッフさんにとっても突然だったようです。どう考えても、あの店のあの狭い厨房に、パスタランチでお客をがんがん回転させる調理設備が整ってるとは思えない。くっつき束麺みたいな初歩的な「だめ料理」が出てしまうのは、小さな鍋で麺を茹でるからでしょう。

パスタをメイン商品として飲食店で提供するには、それなりの設備(とくに「茹で」のための)が必要です。フレンチをつくる道具をなんとなく使いまわしてどうにかできるものじゃないはず。また、これだけイタリアン・レストラン、パスタ屋さんがあちこちにあるいま(神楽坂にもたくさんある)、美味しい麺にこだわるのは当然だし、そこそこの味ではお客はついてこないのですよ。

本当のところはどうかわかりませんが、なんとなく、経営者が、「気軽な料理? パスタだったら気軽じゃん。それにつくるの簡単だし」と、パスタを軽く考えて現場にやらせちゃったんじゃないか、という感じがしてしかたがありません。突然の業態変更で、キッチン側の「きちんと美味しいパスタ」をつくるための準備(設備や調理技術その他含めて)が整わないままに見切り発車させられてしまったような、そんな気が(現場は現場で新しい状況に対して精一杯がんばっているのは見えます。でも、ちょっとモチベーションは下がってるかも)。

あそこのキッチンなら、もっと美味しいパスタがつくれるはずなんです。でも、いまのままじゃすぐに常連は昼に来なくなること請け合い。かといって新しいお客がつくとも思えない。常連さんと思われる年配の女性のお客さんが出されたパスタを大量に残して帰っていったのを見ても明らかに、お客の期待を下回った料理を、いまは提供しているのです。

がんばれ!イデアル。この3~4週間が勝負です。いまは業態変更したばかりでいろいろな準備が整っていない・なれていないからしかたがないかとやさしく見守る古くからの常連も、1ヵ月後に再度様子を見に来て、やはりきちんとしたパスタが提供されていないようであれば、少なくともランチは見限ります。なので、この3~4週間で確実にうまいパスタを提供できるようになってもらわなければ。

自分ももう少し見守ります。しばらくは毎週食べにいってやる。せめてカロセッロ(イデアルから遠くないところにあるイタリアンのお店)くらい美味しいパスタを出せるようになってくれ。

しかし、フレンチでは気軽さが足りないからパスタ、という思考方法は、あまりにも短絡的だし、やっぱりパスタをなめてる感じだなぁ。

たとえばイタリアンでもコースでは気軽さが足りないということで、アンティ・パストとプリモとセコンドを一皿に盛り付けるワンプレートランチを考えた人がいて、いまはそれを導入する「本格的なイタリアンを気軽に食べさせるイタリアン・レストラン」が増えてきています。同様のことをフレンチではできないんだろうか。コースとしてのサービスで提供時間(=客席滞在時間)が延びてしまうのが困るのであれば、短い時間で楽しめる「提供のしかた」を考えるほうが本筋にあってるんじゃないだろうか。

せっかく「美味しいフレンチ」が売りのお店だったのだから、それをいかにもっと気軽に、楽しく、短い時間で提供できるようにするかを考えてほしかったなぁ。あくまでも「フレンチ」というお店のアイデンティティを守ってほしかった。だってビストロ・イデアルは、シェフも、メートルも、ギャルソニエール(でいいの? 女性のギャルソン)も、フレンチを提供するときにもっともその能力を輝かせる人たちのように思えるのだもの。

がんばれ!“ビストロ”イデアル

ちなみに、まだ始まったばかりでわからないけど、おそらく今回のランチ業態変更は失敗に終わるのではないかと自分は思います。そしてそう遠くないうちに、フレンチに戻すのではないか。あるいは、ランチをやめて夜だけオープンという選択肢もありそうだな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/24

ANTONIO DECIMO / LA DOMENICA DELLE PALME

Amedeo Minghi(アメデオ・ミンギ)のアルバムでときどき名前を見かけるAntonio Decimo(アントニオ・デーチモ)のアルバム。すべての曲を自分で作詞作曲(一部に協作あり)しています。プロデュースとディレクションをAmedeoがしていることもあり、Amedeoのコアなファンのあいだではちょっとだけ知られているようではありますが、一般的にはまったく無名といっていいのでしょう、きっと。

この人、いい声だな。クリーンで、あたたかみがあって、ちょっとセクシーで。カンタウトーレというよりも、ミュージカル・シンガーを思わせるような歌い方(ってどんなだ?)。裏ジャケットには色鉛筆のようなタッチで海に近い古いイタリアの小さな町の広場の絵が描かれているのですが、これもまたやさしげでいい感じです。

ただ残念なのは、曲自体にあまり魅力がないこと。決して悪くないのだけど、たとえばサビだけでももっと印象的なメロディがあればなあと思います。全体に標準はクリアしているけれど、どこも標準のままで終わってしまった印象です。ところどころに飛びぬけたところがあれば、もっと魅力的になると思うんですけどね。

Amedeoがプロデュースはしていますが、アレンジはMichele Santoro(ミケーレ・サントロ)という人が担当していることもあってか、アルバムのなかにあまりAmedeoぽさはありません。ギターを中心とした演奏アレンジがされていますが、もしこれがAmedeoアレンジでキーボード中心になってたら、また違った魅力が出たかも。

Antonioは、歌声はとても魅力的なのだけど、彼のつくる曲に「Antonioらしい個性」のようなものがあまり感じられないのが残念です。曲によってほんのりAmedeo風だったり、ナポリ風だったり、Mango(マンゴ)風だったりして、それらのどれも悪くはないのだけど、借り物っぽいんですよ。「L'inverno non e' qui」ではAmedeoがヴォーカルで参加しているのですが、Amedeoがうたいだしたとたんにその曲のすべてがAmedeoの世界に変わってしまう。歌い手が変わっただけで曲自体の印象がすぐ変わってしまうというのは、カンタウトーレのつくる曲としてはちょっとつらいです。かといって、Amedeoがつくった曲をAntonioが歌ったらすぐにAntonioの世界に変わってしまうかというと、そこまでの個性はAntonioのヴォーカルにはないかなぁ。いい声なのだけど、あまりクセがなくてどんな曲にもそれなりにマッチしてしまう感じがするところが、ミュージカル・シンガー風な印象を受ける所以なのかもしれません。

Antonio Decimo名義のアルバムっておそらく、この1枚だけじゃないかと思います。それなりにイタリアの愛らしさが感じられるかわいらしいアルバムなのですが、やはり自分などのような一部のコアなイタリアン・ポップス・ファンが聴けばそれでいい作品でしょうね。強い魅力は感じないけど、でもなんかむげにはできない。それはそれで素敵だといえるな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/23

ALBERTOMORSELLI / DA UN'ALTRA PARTE

Albertomorselli(アルベルトモルセッリ)は、ヴォーカル担当のAlberto Morselli(アルベルト・モルセッリ)とギター・ベース・プログラミング担当のFabio Ferraboschi(ファビオ・フェッラボスキ)のふたりからなるユニットのようです。どう見てもFabioのほうがこのユニットに貢献する中心人物のように思えるのですが、ユニット名にはAlbertoのフルネームが使われているあたりに、このふたりの微妙な力関係が見える気がします(笑)。

ユニット自体はこのふたりによるもののようですが、ゲスト・ミュージシャンが5人ほどいて、そのうちのヴィオラ&ヴァイオリン担当のFilippo Chieli(フィリッポ・キエリ)はこのアルバムで重要な役割を持っているといえます。ほぼ全曲で聴かれる、ヴァイオリンというよりはフィドルといったほうが雰囲気が出る、ひなびた哀愁を帯びた音色が印象的です。

Albertoは中低域の豊かな、深みのある声を持っています。うたい方には粘りがあり、たとえばFrancesco Renga(フランチェスコ・レンガ)からクセの強いビブラートとスケベっぽさを8割ほど取った感じ、といえばなんとなく似てるでしょうか。声も歌い方も、なかなかに魅力的です。

ただ、残念なことに、曲自体に魅力がない。起伏にかける平凡な歌メロ、盛り上がりやドラマ性のない曲構成、アルバム全体を通してこれといった変化のない曲調と演奏。淡々とした古いフォークソングのような曲ばかりですが、それにしてももう少し緩急をつけるとか強弱をはっきりするとかして変化はつけられるはず。Filippoのひなびたヴィオラだってもっと上手に活かせるはず。そういったあたりがとても弱いよなぁと感じます。

どうやらプロデュースもアレンジもAlbertoとFabioのふたりが自分たちでやっているようですが、誰か客観的にアドバイスをくれるよいプロデューサー/アレンジャーをつけたほうがよさそうな感じです。このままではあまりに単調で、CDを最後まで聴く前に飽きちゃいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/22

道成寺と悪魔の唄

先週末は芝居を二本観たのでございます。
土曜日は西新宿で、ルームルーデンスによる「道成寺」。
日曜日は下北沢で、阿佐ヶ谷スパイダースによる「悪魔の唄」。

ルームルーデンスの舞台は、観るのは初めてでございます。
以前から見知っている役者さんが出演するとご連絡をいただいたので、出かけてきたのでございます。
お芝居の内容がどうであるとか、役者さんの演技がどうであるかというよりも、舞踊を取り入れたお芝居で、その舞によりさまざまな心象風景を表現するといった場面が多々あるのでございますから、「もっときちんと踊りの勉強と練習をしろよ!」と思ってしまったのでございます。
また、小さな舞台で、セットもないなかでお話が展開していくのでございます。
観劇者は、何もない舞台にさまざまな物を想像し、そこにあると感じながら観なければならないのでございます。
しかるば役者のみなさんは、もう少しパントマイムの勉強をされたほうがよろしいかと存じます。
非常に崇高な意識と目標を持って上演されたお芝居であろうとは存じます。
しかしながら残念なことに、その舞台を完成させるだけの技量が役者さんにも演出家さんにも足りなかったのでありましょう。

阿佐ヶ谷スパイダースは何度か拝見しております。
長塚様のお宅のお坊ちゃまは、お声や立ち姿、お芝居のしかたなどがますますお父様に似てこられて、今後がいっそう楽しみでございます。
お芝居の内容がどうであるとか、役者さんの演技がどうであるかというよりも、会場である本多劇場様、あまりにも暖房がきつすぎでございます。
あまりの暑さに、いまにも卒倒しそうでございました。
入り口でいただいたお広告ではたはたと扇ぎ続けた観劇者は、私だけではございませんでしたよ。
死霊がたくさん出演するお話ですのに、あそこまで会場が暑いのはいかがなものかと存じます。
暑さのあまり、舞台に集中できなかったのでございます。
とはいえ、山内圭哉様、小島聖様、そして長塚圭史様のお芝居は、印象的でございました。
主役?のおじさまを演じられた役者さん、そして死霊の伍長殿を演じられた役者さんに、もう少し味わいと深みがあったなら、舞台にもっと奥行きや厚みが感じられたでしょうに、その点が少しばかり残念でしたことを付け加えておきたいと思うのでございます。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/02/21

オペラ座の怪人

ミュージカル映画『オペラ座の怪人』を観てきました。

劇場で観た予告編がよかったので、けっこう期待していきました。ミュージカル『オペラ座の怪人』は、ケン・ヒル版は観たことがあるのですが、あまりおもしろくなく、劇団四季が採用しているアンドリュー・ロイド・ウェーバー版を観てみたいと思っていたし、今回の映画はウェーバー版の完全映画化だということもあったので、楽しみにしてたんです。

観終わった感想。う~ん、思ったほどじゃないな。悪くはないけど。

『オペラ座の怪人』自体は原作の文庫本を読んだこともあるのですが、じつはあまり細かいところまでは覚えていません。でも、より原作に忠実なのはケン・ヒル版ミュージカルでしょう。ウェーバー版は、けっこうアレンジが加えられていた感じです。

しかし自分にとっての『オペラ座の怪人』は、おそらく10年以上も前にNHKで放送された、イギリスかアメリカで制作された3時間程度のドラマのイメージなのです。このドラマでは、原作のイメージをきちんと残して、かつシンプルに(原作はけっこう長くて途中かったるかったりするのです。そういうところがフランス的?)、しかしポイントははずさないというつくりになっていました。

今回の映画(少し前に来日公演があったケン・ヒル版ミュージカルもそうでしたが)のもっとも弱いところは、ファントムの歌がうまくない、という点だと自分は思います。だってファントムは「音楽の天使」なんですよ。なのに、あの発声、あの歌い方はいかんだろ。

べつにこれがロック・ミュージカルだとかロック・オペラだとかだったらかまいません。たしかに『オペラ座の怪人』という作品自体はロックというかポップ・オペラなので、そういう意味ではこの歌い方でもかまわないといえばかまいません。

でも、舞台となっているのはパリのオペラ座ですよ。登場人物はオペラ座関係者ですよ。そしてファントムを慕うクリスティーヌはソプラノ歌手で、クリスティーヌに歌のレッスンをしたのがファントムなんですよ。なのにあのファントムの歌唱。ありえない。

ラウル・シャニイ伯爵の歌がポップス歌唱なのはぜんぜんかまいません。彼は「素人」さんですから。しかしクリスティーヌとファントムには、オペラ座で働く人間を、オペラ座にオペラを観にくる観客たちを、心の底からとらえて離さないような圧倒的な歌唱力と声が必要なはずなのです。

ファントムが、本当に「音楽の天使」と思えるほどに素晴らしい歌声を持っていなければ、この話は成立しないはずなんです。

この映画を観て、ラウルとファントムのあいだで揺れ動くクリスティーヌの心を「移り気」とか「浮気性」のように感じた人が多くいたようです。そう思われて当然。それを「字幕(翻訳)のひどさゆえ」と指摘している人も少なくありませんが、それ以前に「ファントムの歌の下手さゆえ」のほうが大きいでしょう。

クリスティーヌのなかにある「ラウルに対する愛」と「ファントムに対する愛」は、まったく別のものです。幼馴染でもあるラウルに対する愛は、いわゆる「恋愛感情」です。しかし、ファントムに対する愛は、音楽という芸術への渇望であり、音楽家・芸術家としての自分をより高みに導いてくれる、あるいは自分が愛する「音楽という芸術」の素晴らしさを理解してくれ、一緒に愛してくれ、さらに高い時限の素晴らしさを見つけ、教えてくれる、まさに「音楽の天使」への愛情であり、非常にスピリチュアルなものです。プラス、そこに亡くなった父親(やはり音楽家)への想いも重なるのですが、このふたりをつなぐのはあくまでも「音楽」なんです。しかし、ファントムの側がそこに「音楽以外のもの」を見出し、求めてしまったところにファントムの哀しみがあるわけです。

ところが、この映画のファントムは、セクシーで魅力的な男性ではあるけれど、「音楽の天使」には程遠い。「音楽の天使」を名乗るなら、フランコ・コレッリくらい素晴らしい歌声を聞かせてくれ、せめてアンドレア・ボチェッリくらいの歌は聞かせてくれよ。そこがあまりにも弱いので、クリスティーヌとファントムをつなぐはずの「音楽」が観客に理解できず、結果としてラウルとファントムがほとんど同格・同種類の「恋の相手」に見えてしまうところが非常に残念。

ついでにいってしまうと、映画内(ということは、ミュージカル内)で使われている音楽自体も、それほど魅力的には感じられませんでした。有名な「ファントムのテーマ(?)」はインパクトがあるけれど、それ以外は思ったよりフレーズにバリエーションがないのね。ミュージカル『Cats』もウェーバー作だったような気がしますが、あれもおんなじフレーズばかりで観てて飽きた記憶があります。もちろん、同じフレーズを何度も使うことでよりそのフレーズの印象が強まるということはあります。それぞれのフレーズにはそのフレーズが表わす登場人物や感情が割り振られていたりするので、ある種のナレーション/字幕スーパー的な意味合いで同フレーズを多用しているということはあるのでしょう。でも、飽きるものは飽きる。

自分が以前に見たテレビドラマ版の『オペラ座の怪人』では、音楽はオペラそのものを使っていました。それぞれの主要なシーンでオペラからのアリアを用い、それまでオペラを聴いたことのなかった自分にはそれがとても印象的かつ魅力的でした。主に「ファウスト」からの曲を使っていましたが、これで自分は「ファウスト」のCDを買ってしまいましたから。いまでもドラマのクライマックスで使われたパートを聴くと、ちょっと泣きそうになります。オペラという「音楽」で引かれあうクリスティーヌとファントムのある種の絆が強く感じられ、しかしその絆を自分で壊してしまうファントムの弱さと哀しみが胸にしみます。

そういった部分が、この映画ではぜんぜん伝わってこなかった。そのため、ただのラヴ・ストーリーになっちゃったなと思います。

とはいえ、セットは豪華だし、よくつくってあるとはいえるでしょう。音響面も含めて、観るのであれば劇場で。人間描写が浅いので、DVDではいっそうのスケールダウンはまぬがれないだろうな。

| | コメント (5) | トラックバック (2)

« 2005年2月13日 - 2005年2月19日 | トップページ | 2005年2月27日 - 2005年3月5日 »