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2005年5月29日 - 2005年6月4日

2005/06/03

いや、もやしのほうが

昨日の仕事帰り、駅のホームで電車を待っているときに聞いた、大学生風兄ちゃんふたりの会話。金髪兄ちゃんAの家に小坊主風兄ちゃんBがこれから泊まりにいくようです。

A「問題は、もやしとボディソープのどっちをとるか、だよ。うち、いま米と昆布しかないんだ。だからもやしを買おうと思ってるんだけど、ボディソープもないんだよ。ボディソープないの、きついじゃん」
B「米と昆布しかないの? もやしにしようよ」
A「うん。でも、ボディソープないと、やっぱきついじゃん。それに、米と昆布にもやしをつけたところでどうなる? って感じもあるしさ」
B「まじで米と昆布しかないの?」
A「うん。だからさ、今日の夜は、米と昆布。明日の朝は、米と昆布。明日の昼は、米と昆布。もしかしたら明日の夜は、もやしも。ていうかさぁ、俺、昨日の夜から米と昆布しか食ってねぇよ」

もやし買って帰れよ!

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R.I.P.

通勤時に聴くのに使っているポータブルCDプレイヤーの調子がますます悪くなってきていて、真剣に買い替えを考え始めている今日この頃です。今朝はBanco del Mutuo Soccorso(バンコ・デル・ムトゥオ・ソッコルソ)の1975年のライヴを収録した『Seguendo le Tracce』を聴いてたのですが、ちょっと聴くとすぐに、しかも場所はランダムに、演奏が途切れてしまい、落ち着いて聴けず。日によってはトラブルフリーで最後まで通して聴けることがあるのだけど、それが「日によって」なのか「CDによって」なのかはちゃんと検証したことがないのでわからん。

そんなわけで、通勤時に音楽聴いてかえってストレスという残念な状況ではありますが、とはいえやはりBancoはすごい! CD1曲目の「R.I.P.」だけでノックアウトです。しかも幸いなことに、この曲は途中で切れることなく最後まで聴けたし。

うん。思うに「R.I.P.」には、Banco musicの魅力、イタリアン・プログレッシヴの魅力が凝縮されてます。スピーディでスリリングなパートとスローでウォーミーなパート、テクニカルでパッショネイトな演奏、ときにハードに、ときにロマンティックに歌い上げるハートフルなヴォーカル、さまざまな要素を1曲のなかでドラマティックに展開させる抜群の構成力。素晴らしい。スタジオ・ヴァージョンを聴いてもライヴ・ヴァージョンを聴いても、いつも感動してしまう。彼らの曲のなかでもっとも好きな1曲です。

しかし、このCDに収録されたライヴではなぜ英語ヴァージョンなのだろう? 世界向け英語版デビューアルバムのプロモーションなのだろうか。イタリア国内でのステージなのに。英語ヴォーカルも悪くはないですが、やっぱりFrancesco Di Giacomo(フランチェスコ・ディ・ジァコモ)さんにはイタリア語で歌ってもらいたいなぁ。

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2005/06/02

FABRIZIO CONSOLI / DICIOTTO PICCOLI ANACRONISMI

変なジャケット・アートからして、きっと「普通のポップス」を「普通」に演奏してはいないだろうなと思っていたのですが、思ったとおりでした。変なの。

アルバム全体としてのまとまりはあまりなく、ジャズ風だったりポップス風だったりフォーク風だったりといった曲がばらばらと組み合わされています。ただ、そのどれもに、ちょっと「アートな雰囲気」がまぶしてあるところがFabrizio Consoli(ファブリツィオ・コンソーリ)の特徴なのかな。

アコースティック楽器の使用比率が高く、うなりを上げる?ウッド・ベースが動き回るジャズ風な曲では、ときにBrigitte Fontaine(ブリジット・フォンテーヌ)やLewis Furey(ルイ・フューレイ)を思い出したりしてしまいました(あそこまでアーティスティック or 退廃的ではないけれど)。また、M4やM10などのバラード系の曲では、最近のGianluca Grignani(ジァンルカ・グリニャーニ)とかに少し似てるかなぁと思ったり。でも、全体を通してのちょっと実験的な感じの作風は、もしかしたらMarco Parente(マルコ・パレンテ)に少し通じるところがあるかも(ないか?)。

ひび割れた声は個人的に好きなタイプだし、あまりストレートとはいえない変なアレンジや作風もどちらかというと好みなのだけど、メロディ自体の魅力が薄いのが残念。雰囲気は悪くないのでなんとなく最後まで聴けるけれど、これでもっと魅力的なメロディと曲構成があったなら、より「変」「不思議」がいいかたちで際立っただろうになぁ。 ...というようなことはあるけれど、それなりに楽しめて聴けちゃったのでよしとしましょう。

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2005/06/01

MARCO PAOLINI - MERCANTI DI LIQUORE / SPUTI

イタリアのネットショップでなんとな~くジャケット買いしたアルバム。黄色をベースにした素朴なジャケットのイメージそのままの、素朴な音楽が収録されてました。

ジャンルとしてはフォーク・ソングとかトラッドとかに入るのかな。アコースティック・ギターとウッド・ベース、フィザルモニカ(アコーディオン)、ピアノといったアコースティック楽器による演奏をバックに、Marco Paolini(マルコ・パオリーニ)がおっちゃんヴォーカルを聴かせるといった内容。途中に古いラジオかテレビの演説テープ?やじいちゃんとばあちゃんの口げんか?みたいなものも入り、もしかしたら政治的・社会的な意味を持った歌詞なのかもしれませんが、曲自体はけっこう楽しげです。

いわゆる商業ベースのポピュラー・ミュージックやフォーク・ソングではないと思われるので、たぶん売れないだろうし、ポップス・ファンにもアピールはしないでしょう、おそらく。かといって、コアなトラッド・ファン向けという感じもあまりしないな。とくにポップスやトラッドとかにこだわるのではなく、地元の音楽を大切に楽しんで演奏している、といった印象です。

ちなみにMarcoは俳優もやっている(そっちがメイン?)らしい。Mercanti di liquore(メルカンティ・ディ・リクォーレ)は1990年にモンツァ(Monza)で結成された「パワー・フォーク・トリオ」らしい。そういわれると、なんとなくそうかもなぁという感じのする音楽でした。

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2005/05/31

夜中に民法地上波で放送されたのを観ました。古いイタリア映画。監督はフェデリコ・フェリーニだったかな。

最近、古いイタリアのモノクロ映画をテレビで観る機会が何度かあったのだけど、なんていうか、古いイタリア映画ってつらい内容のものが多いですね。『道』にしても『自転車泥棒』にしても『甘い生活』にしても、なんか救いがないというか、希望がないというか。

この『崖』も、救いも希望も未来もない、つらい映画だった。

『道』では、ジェルソミーナはかわいそうでしたが、そしてザンパノはすべてが手遅れでしたが、でも「手遅れだった」ということにザンパノが気づく、という救いがありました。気づいたことで、このあとのザンパノの行き方は変わっていくかもしれない。それがよい方向か悪い方向かはわからないけれど、少なくともこの先の未来があった。

『自転車泥棒』のお父さんは、さらに生活は困窮していくだろうけれど、お父さんを大事に思っている息子がそばにいることを知っています。大切な息子に「自転車泥棒」という恥ずかしい行為を見せてしまったこと、息子のおかげで逮捕されずにすんだことなどから、お父さんはきっとこの先、またまじめに、一生懸命に働くでしょう。状況はよくはならないかもしれないけれど、未来を感じさせます。

でも、『崖』のアウグストには、未来すらない。

頭が弱いがうえにザンパノに売られてしまったジェルソミーナや、根は悪くないのだけど無骨で不器用ゆえにジェルソミーナを死なせてしまったザンパノ、あるいは生活のために全財産をはたいて手に入れた自転車を盗まれてしまったがために他人の自転車を盗むことでしかリカバーできないと悪の心が一瞬生まれてしまったお父さんとは、根本的に違います。たしかに「詐欺師」としてしか生きられなかったのかもしれないけれど、アウグストがそうならざるをえない理由や背景が見えてこない。けっきょく最後も貧しい農家から金を騙し取り、さらに仲間を欺いて独り占めしようとし、けっきょく仲間に殺されてしまって終わり。最後の儲けを独り占めしようとしたのは娘が学校へ行くための資金にしたかったのだとしても、あまりに自分勝手で、彼には最後まで「反省」がない。その結果、崖でひとりで死んでいくしかなく、アウグストの未来はここで潰え、娘のためのお金も用意できず、もしかしたらその金が用意できなかったために娘の未来もしぼんでしまったかもしれない。しかも父親が「詐欺師」ですからね。

土曜の午後にビデオで観たのだけど、せっかくの週末がすっかりどよ~んとしたものになってしまいました。恐るべし、イタリア映画。

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2005/05/30

バタフライ・エフェクト


ひさしぶりに映画館で映画を観ましたよ。ここのところ忙しくて、劇場に行く余裕がぜんぜんなかったからね。

ひさしぶりの劇場鑑賞は『バタフライ・エフェクト』。地球のどこかで蝶が羽ばたくと、その裏側で竜巻が起きる... というカオス理論のことだそうですが、なんだかよくわかりません。風が吹けば桶屋が儲かる... と同じ?(←違うだろ)

要するに、タイム・スリップ&パラレルワールドものですね。ひさしぶりに劇場鑑賞する映画としては、なかなかおもしろかったです。

「いまの生活」に影響している「失敗」を、過去に戻って修復することで「いまの生活」をよくしようとするのだけど、その「失敗」を修復したことで別の「失敗」が生まれ、別の「いまの生活」がより悪い形で現われてしまう。それを修復するために、再度過去に戻って... のくりかえし。ひとつの「修復」がどんな別の「失敗」を引き起こすのかという、可能性をたくさん考えるという点で楽しめました。

細かく考えると突っ込みどころはいっぱいありそうですねぇ。いちばん最初の「いまの生活」を形づくる過去において、主人公は少年時代に何度もの「短時間の記憶喪失」を経験してます。この「記憶喪失」がのちの場面の「未来から過去に戻っての修復」に関係しているのだけど、最初の「いまの生活」の時点ですべての「短時間の記憶喪失」を経験しているわけだから、ここは1本の時間軸につながったワールド。ひとつひとつの「短時間の記憶喪失」時の操作が行なわれることで、そこからは別のワールドへと移ってしまう。

こういったテーマまは、たんなる「タイム・スリップ」ではなく、異なった時間・異なった時空に同時並行的にさまざまなワールドが存在している=パラレルワールドという概念で見ないと、わけわからなくなっちゃいます。そのへんが『タイム・ライン』は甘かったよな。それよりは、いい出来だと思う。

ただなぁ、最後の「修復」に向かうための「きっかけ」が、あれじゃいかんでしょ。それまでの「きっかけ」は、幼少時の「記憶喪失」という同じキーワードでつながっているのに、最後のだけはそれがないですからね(なかったよね?)。最後にきての詰めの甘さは残念です。

ちなみに自分は、主人公のエヴァン(だったっけ?)は、いちばん最後に手に入れたことになってる「いまの生活」の時間軸上に最初からいたのではないかと思っています。途中で映し出されたさまざまな「失敗」や別の「いまの生活」なんて、最初からなかった。ケイリーなんて、最初から彼のそばにはいなかった。最後の「修復」で行なった、ケイリーへの仕打ちだけが真実で、そのときの記憶とある種の罪悪感、および、おそらくあの年代の男の子であれば、のちの「いまの生活」とは関係なく、その時点での彼の気持ちとして、あの仕打ちが「好意」から出た可能性が多いわけですから、そのときの想いなどが複雑に交錯して、思春期に一時的に精神が不安定になり、その結果見た夢・幻・幻覚の類なんじゃないかなぁと。

ま、解釈は人それぞれですけどね。そういう解釈の楽しみがあるというだけでも、おもしろい映画だったな。

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生きてる人間よりエロティック

志の輔落語 in 下北沢を観てきました。志の輔は新宿やパルコなど、年に数回は落語会を観にいくのですが、下北沢で観るのは実は初めて。毎年、下北沢の志の輔落語はひとり芝居があったりと、落語以外のことにも詩の輔が挑戦しているというので前から1度観てみたいと思っていたのですが、なかなか機会がなくて。

というわけで、初体験となった志の輔落語 in 下北沢。今回は「文楽編」ということで、落語と文楽(人形浄瑠璃)のコラボレート。文楽もいまだ観たことがなく、前から1度観たいと思っていたので、願ってもない組み合わせです。

会は二部構成になっていて、前半は志の輔のトーク+謎のロシア人に扮しての漫談?+文楽。この漫談?が始まったときは会場中がとまどいました(笑)が、まさか、これが文楽への入り口になっているとは思わなかった。漫談?から文楽へのつなぎはみごとでした。

そして、初めて観る文楽。素晴らしかった。

八百屋お七が愛する吉三郎を助けるために、自分が火あぶりの刑になる危険も顧みず、火の見櫓に登って鐘を打つ場面。鳥肌立ちました。お七を演じる人形の、なんと美しいこと。流れるような体の動き。しなやかな舞。自分の席はすごくうしろのほうだったので人形の顔は見えないのですが、それでも表情が伝わってくるようでした。あの舞の美しさ、妖艶さは、玉三郎や福助にも負けていない、むしろ、生きている人間よりもエロティックにすら感じてしまった。

いやぁ、いいものを観ました。今回はほんの一場面、短い時間でしたが、文楽の持つ美しさと力強さの一端を垣間見れたように思います。今度は時間をつくって、国立劇場に観にいこうと思ったぞ。

後半は落語。あれは古典なの? それとも新作? 猫の兄弟が、親猫の革が貼られている三味線を持つ小唄の師匠の家で人間に化けて、それを覗き見した町人や化けられた本人たちが大騒ぎ、というネタ。これも、途中の「猫の兄弟たちの生い立ち」のところで突然に舞台が転換し、文楽へ突入。着物を着た猫の人形(かわいいぃ~っ!)たちがしなやかに舞い、しかも志の輔さんは義太夫に挑戦。よこには三味線引きの人形(笑)。唸ってました、気持ちよさそうに。しかし、声が悪いな、あいかわらず。義太夫節はやはり、もう少し通りのいい声で唸ってもらわないと。

この、中盤の猫人形浄瑠璃は、志の輔義太夫のせいもあり、文楽なのにあちこちで笑いが起きるという楽しいものになりました。そしてまた、文楽から落語に戻ってくるところのつなぎも素晴らしい。すごいな。こういう形で落語と文楽が混ざってくるなんて思わなかった。歌舞伎と落語は、勘九郎さん(現・勘三郎さん)が落語家を演じる演目で、歌舞伎の舞台のなかで落語が語られるというのを観たことがあるけれど、落語の中に文楽というのは初めて。おもしろいです、こういうコラボ。

いやぁ、本当にいいものを見せてもらいました。落語以外への挑戦がある志の輔落語 in 下北沢、すごい。来年もなんとか時間をつくって観たいものだわ。

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