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2005/10/07

ふりかえればまだそこに

仕事上の理由と個人的な興味から、飲食店繁盛会が出している「飲食店繁盛会 ワンミニッツセミナー」というメルマガをとっています。毎週1回、非常にシンプルでかんたんなのだけど奥行きの深いサービスを提供するヒントが書いてあり、とても参考になるし勉強になるし共感もできるのです。

10月2日に発行された号では、お客さんのお見送りについて書かれていました。

行きつけのバーで飲んでいたときのこと。その日はマスターとの話が弾み、本当であれば深夜3時に閉店のところ、気がつけば朝6時まで店に居座ってしまっていたのだそうです。それに気づき、申し訳ないことをしたなぁという気持ちでいっぱいになったのだけど、マスターはそんな感じはまったくみせず、それが当たり前のように、普通にずっと接してくれていました。店を出るときも、マスターはお見送りをしてくれました。「マスター、ありがとう」といって店を離れ、マスターに悪いことしたなぁ、明日もお店なのになぁと思いながら200メートルほど歩き、ふと振り返ったら... マスターはまだ扉のところで、見送ってくれていたのです。

そしてこのメルマガの書き手さんは気づきます。

「ただお見送りするよりも、振り返ったときにそこにいてくれるということが、こんなにも嬉しいんだ!」

こういうの、わかるなぁ。お見送り自体はしてくれるお店が増えてきているようには思うけど、見送り続けてくれるお店って、実はあんまり多くないのですよね。

もちろん、お客さんがいっぱいで店内が忙しいときには、なかなかゆっくり見送っていられないということはあります。そういうときには、こちらだってわかりますから、べつになんとも思いません。でも、たとえばホールがすっかり落ち着いていてこれといった動きが出そうにない状況であったり、自分が最後のお客であったりしたときなどは、扉のところまで見送るだけでなく、そのあとも見送ってくれていると、ふと振り返ったときにまだそこで見送っていてくれると、やはりうれしいものです。

「お見送り」って、たんに「店からお客を外に出す」という意味じゃないと思うのです。「今日はお店に来てくださってありがとう、気をつけてお帰りになってくださいね、そしてまた来てくださいね」という、お客へ対してのあたたかい心遣いだと思うのですよ。その意味がわかっていれば、そういう気持ちがあれば、すぐに店内に引っ込んでしまうことなんてありえない。

サービスにはいろいろな「型」があって、サービス・マニュアルではその「型」を「すべきこと」として教えます。でも「型」は、マインドを形として表現するひとつのモデルにすぎません。「型」だけを教えてマインドを教えないと、「お客さんが帰るときには扉のところまでお見送りする」というスタイルだけしか教えないと、意味も考えずに「店からお客を外に出す」だけのお見送りをしてしまうのでしょう。大切なのは、「お見送りとは、お客さんに対するあたたかい心遣いである」ということなのに。

自分はあまり外食をしないのだけど、その理由のひとつに、楽しい食事ができる店が実は少ない、というのがあります。形だけのサービス、場をわきまえない下品なお客、その他もろもろ、食事の雰囲気を壊す要素だらけなお店がたくさんあります。そのほとんどは、お店側のスタンスがはっきりしていない、ホールのスタッフがお店の意思やサービスの意味について理解していないことによります。

そんななかで、数少ない、いつ行っても確実に満足できるお店が、神楽坂のビストロ・イデアルでした。

非常に丁寧な仕事をする黒岩シェフの料理は「フレンチって、こんなにおいしかったんだ」と再確認させてくれました。パプリカのババロアは絶品。また、すべてにおいて火の入れ具合が絶妙で、これより早ければ生焼けになってしまう、でもこれより遅ければ焼きすぎで硬くなってしまうというぎりぎりのところで料理を提供してくれました。いままで嫌いだったもの、食べられなかったものも、ここで出されると食べられてしまう。どころか、おいしく感じて、以後、好きになってしまうということも何度もありました。

そして、支配人の大園さん。彼のサービスも素晴らしい。鹿児島出身で、人懐っこい笑顔を持ち、フレンドリーに、しかしお店とお客との距離はきちんと測ったサービス。その立ち居地のバランスが非常にいい。サービス・パーソンとして働いて21年、ソムリエの勉強もしたことがあり、ワインについても詳しい。すべてのお客にきちんと目を配り、あたたかな心遣いを端々で見せてくれます。

結婚記念日に食事にいったときも、妻の誕生日に食事にいったときも、大園さんは必ず、お見送りをしてくれました。神楽坂の細い坂道で、姿がぼんやりと見えなくなるまで。あんなにたっぷりと見送ってもらったこと、ほかの店ではないな。自分は大園支配人のサービスが大好きです。

しかしイデアルは、変わりつつあります。

体調を崩した黒岩シェフは、先月でお店を去りました。急きょ迎え入れられた椎名シェフは、おそらく準備不足もあるのでしょう、まだその腕前を充分に発揮できてはいないような印象を受けます。また、繊細で手間をかけた料理が得意だった黒岩シェフとは、スタイルがだいぶ違うようにも感じられます。手のかかった煮込みや魚料理やムースなどよりは、グリエなどの肉の焼き物のほうが得意らしい。

そして大園支配人。彼のサービスがあるかぎり、イデアルは「イデアルらしさ」の一片を保つことはできるでしょう。でも、もし彼もお店を去ってしまったら... 手の込んだ本格的なフレンチを、熟練のメートル(支配人)のサービスで、しかも手ごろな価格で楽しめるというイデアルの魅力は、すべてなくなってしまうでしょう。そして、そうなりそうな予感がひしひしと感じられる今日この頃。

ふりかえればまだそこに、人懐っこい笑顔の大園支配人が見送ってくれている。クリスマスも、来年の結婚記念日も、来年の誕生日も、そういう情景が当たり前のように見られると思っていたのに。見たいと思っているのに。

お客は、お店につくのじゃないのです。とくにチェーン店ではない、こじんまりとした規模のお店では、お客は「人(スタッフ)」につくのです。たったひとりのスタッフで、お店もお客もいろいろなことが変わるのですよね。そこが飲食店経営って難しいなと思うのでした。

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コメント

もあさん、全く同感です。

2ヶ月ほど前に、久しぶりに家族3人で近くの町のレストランへ入ったのですが、
そこは主人と知り合って程なく連れて行ってもらったところなので、かれこれ18年も昔から知っている店です。

田舎町のトラットリーアで、なぜか山に上の町なのに
もあさんの好きなアリーチ・アッラ・マリナーラがおいしくって、(すっぱすぎるところが多いでしょ?ここのはそうじゃなかったの)
とにかくいい印象を持っていたのに、
今回何年ぶりかで行ってみたら店の中は半分が団体客ようにしつらえられていて、ウエイトレスはおそらくポーランド人で、その子に罪はないのですが、以前のひなびた、でも温かい接客を知っているだけに大げさに聞こえるかもしれませんが残念で涙が出てしまいました。
後で店の主人が謝りがてら、特別のワインを持ってきてくれましたがこれから先、もとのこの店の味はもう味わえないだろうと思うと寂しくなりました。

投稿: Keiko | 2005/10/08 05:41

自分も以前はレストラン企業の社員だったので、経営上の理由等で「いい感じのお店」を「そのままの形」では維持できないこともあるっていうことは、わかってはいるのですけどね。でも、やはり残念なものは残念ですよね。場所も店名も外装もそのままなのに、サービス内容だけが変わってしまっているような場合にはとくに、それに気づいたときにショックです。

投稿: もあ | 2005/10/09 18:34

数少ない神楽坂を食事されたの?


投稿: BlogPetの小丸 | 2005/10/10 14:53

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