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2004年5月30日 - 2004年6月5日

2004/06/04

ドーン・オブ・ザ・デッド

観てきましたよ、『ドーン・オブ・ザ・デッド』。事前情報で、ゾンビが走って追いかけてくるのがおかしいということを聞いてたんですが、ほんと、おかしい。だって、ゾンビですよ。死んでるんですよ。なのに、走って追いかけてくるの。それも、全速力で。もう、爆笑しそうでしたよ。

特殊メイクとかはね、よくできてたんじゃないかと思います。ショットガンで頭が半分吹っ飛ぶところとか。しかし、ゾンビという別の物体(生き物じゃないですよね? 死んでるんだから。でも、頭を打たれると死ぬ?のはなぜ???)とはいえ、人のかたちをしたものを、ゲームのように屋上から狙撃して楽しんでるシーンは、あまりいい気分がしませんね。むかしむかし、ヨーロッパの貴族が森に奴隷を放ち、馬で追って矢で射ったフォックス・ハンティング(狐狩り)ゲームとか思い出しちゃいます。ほんのちょっとのことで「こいつは人間じゃない、狐だ」って思って、人型のものを楽しんで撃ち殺せる。人間ってやっぱり罪深いのかしらん。だからゾンビになっちゃうのね。

ちなみにゾンビってのは、もともとはブードゥー教(だったよな)の処刑方法だそうです。ただ殺すだけでは飽き足らない極悪人を、1回殺して魂を奪ったのちに、ゾンビパウダーという特殊な調合役を飲ませるだか塗りつけるだかして生き返らせ、以後は魂のない生ける屍としてずっとこき使うっていうものなんだとか。しかしそれがヨーロッパなどのキリスト教国に渡ると、最後の審判の日に、すべての死者が生き返り、善き人と悪しき人を神が分かち、善き人は天(神の国)へ召され、悪しき人は苦しみの地に残される(てなことでしたよね?)っていう聖書の話へとリンクされちゃうんだろうな。ゾンビはみんな、けっきょく悪しき人?

そういえば、映画のなかに出てくる犬。チップスという名前でしたっけ? あの犬、ぜったいゾンビを呼んでるよね。あいつが吠えるとゾンビがわらわらとやってくる。犬(Dog)は神(God)のスペルをさかさまにしたものなので、悪魔の使いといった意味合いを持たせられることがあるらしい。今回のチップスは、きっとそういう役割なんだろう。

ジョージ・A・ロメロのオリジナルを観たのはもうずいぶんむかしなので、どんなストーリーだったか覚えてないんだけど、このリメイクは、大枠で踏襲されてるんだろうか? なぜゾンビが大量発生したかという原因もわからず、この騒動がどう収束するのか(もしくはしないのか)といったことも描かれず、なんだかわけもわからないままに混沌として終わるっていうのは、気分はよくないけど、このいや~な感じがいいね。救いがない映画って、そんなに嫌いじゃないんです。

しかし、やっぱゾンビはゆらゆらと追っかけてくるほうが怖いぞ。ゆらゆらで足が遅いのに、逃げ切れないってほうが。追っかけてくるゾンビよりも、ゾンビが打たれて頭が吹っ飛ぶシーンよりも、逃げるおっちゃんがクルマの中で誤ってチェーンソーで一緒に逃げる姉ちゃんを切り殺してしまうシーンのほうが、なんか怖かった。チェーンソー、痛そうだった。『テキサス・チェーンソー』よりも、あの姉ちゃんが切られるシーンのほうがきつかったわ。

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Gianfranco Manfredi "Zombie di tutto il mondo unitevi!"

この人のこと、自分はぜんぜん知らないんですけどね、Gli indimenticabiliシリーズの再発は安いし、内容もいいものが多いし、ジャケット・アートも変で気になるしってことで買ってみました。そしたら、なにげに曲作りやアレンジでClaudio Fabi(クラウディオ・ファビ)やRoberto Colombo(ロベルト・コロンボ)とかが関わってて、なかなかおもしろい作品になってます。ヴァイオリンでLucio Fabbri(ルーチォ・ファッブリ)とMauro Pagani(マウロ・パガーニ)も参加してるし、PFM人脈の中に入る人なのかな。

都会と未開地、現代と原始時代、地球人と宇宙人(?)――そんなものが入り乱れたようなイメージのジャケットは、怪しさ満載です。でも曲のほうはそれほど怪しいことはありません。インディーズ系フォーク・ロックっぽい感じですが、そのなかに地中海風味があったり、泥臭いフォークがあったり、古い時代のヨーロッパの街角楽師を思わせるようなノスタルジックな曲があったり。そんな感じでいろんなタイプの曲が入り乱れているところは、ジャケットの混沌とした印象とあっているかもしれません。

でも、それが変にプログレッシヴとかアートっぽいとかいうことはなく、全体に聴きやすいと感じるのは、Gianfranco Manfredi(ジァンフランコ・マンフレディ)のヴォーカルが、なんだか田舎臭くて垢抜けてないからかな。ちょっとにごった感じの声だけど、なんか、人がよさそうなんですよ。この声が意外と求心力があって、どんなタイプの曲でもGianfrancoのものにしてるんでしょうね。

なかなかにおもしろいアルバムでした。新品で5ユーロという値づけ以上の楽しみがありますね。

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2004/06/03

Antonello Venditti "Antonello nel paese delle meraviglie"

ゆうなれば、Antonello Venditti(アントネッロ・ヴェンディッティ)のベスト盤みたいなものです。ただ、普通のベスト盤と違うのは、全曲がアレンジ違いで再録音されていること。しかも、全曲を通してバックにブルガリアン・シンフォニー・オーケストラがつき、コーラス隊が入り、シンフォニック・アレンジがされてます。

……って、ここまで書くと、もう間違いなく自分の大好きな“ツボ”です。フルオーケストラにコーラス隊。合唱ポップス・ファンの自分にはたまらないはずなんですが、じつはそれほど燃えないのよねぇ、聴いてても。

なんかね、このオーケストラ、音色に艶がないんですよ。東欧のオーケストラってそういう傾向が多いようなんですが、つややかでしなやかというよりは、ちょっとざらついた音色で「ひなびた感じ」がそこはかとなく漂っちゃう。ヨーロッパの歴史と伝統をまとった重厚で深遠な、かつ華麗な感じがね、あんまり感じられない。

さらにね、このオーケストラのアレンジは、どうなんでしょ? どうも落ち着きがないというか、いろいろと音やフレーズを出しすぎというか、そんな感じ。オーケストラの担当をしたの、いったい誰だよ!? と思ってみてみたら、Renato Serio(レナート・セリオ)だからなぁ。クラシカルなアレンジが上手な人なのになぁ。

オーケストラの音色とアレンジがもうひとつ自分の好みにはまらないのが、いまひとつ聴いてて燃えられない理由の大きな要素ではあるのですが、もっと根本的な部分でいうと、Antonelloの曲って、こういったオーケストラ・アレンジにもともと向いてないような気がします。Antonelloの曲自体は、自分は嫌いじゃないんですけど、オーケストラにしちゃだめなんだろうな。クラシカル・ミュージック的な要素が少ないんでしょうね。だから、せっかくコーラス隊が入って美しい合唱を聞かせてくれているのに、そこに声楽的な、あるいは賛美歌的な、精神の高揚といったものが感じられない。一生懸命オーケストラが鳴っているのに、クラシックというよりは安い劇伴風になっちゃう。そして致命的なのは、オーケストラの音色と演奏が、Antonelloのヴォーカルおよび曲と融合していない。それぞれがバラバラに、ときにはぶつかってしまっているように聞こえるんですよ。

ま、これはこれで楽しめはするんですが、たとえばRenato Zero(レナート・ゼロ)の最近の作品とか、Amedeo Minghi(アメデオ・ミンギ)のライヴ盤とかとくらべると、オーケストラの“輝き方”“生き方”がぜんぜん違うなぁと。Antonelloは変にオーケストラへの色気なんて出さないで、普通にポップ・ミュージックのアレンジでやってたほうが、おたがいにとっていいんじゃないかなぁと、そんなふうに思ったのでした。

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2004/06/02

Amedeo Minghi

Amedeo Minghi(アメデオ・ミンギ)のファースト・アルバムがやっとCD再発されました。プログレッシヴ・ロックからイタリアン・カンタウトーレに入ってきたファンにとっては、Amedoのアルバムのなかでも、『Cuori di pace』『La nuvole e la rosa』とならんで、もっとも興味をそそられていた作品でしょうね。マーキーの『イタリアン・ロック集成』に取り上げられていたのは、この3枚だけですから。インターネットが普及する以前は、マーキーのこの本はほんとに貴重な資料でしたね。

個人的な意見としては、Amedeoの最高傑作は『I ricordi del cuore』だと思っています。プログレ的見地からも、イタリアン・ポップ・ミュージック的見地からも、彼の作品のなかでもっとも密度が濃くてクオリティの高いアルバムですね。それまでの作品は、ここへと至る過程であり、これ以降の作品は、これを基盤にイージーな方向にヴァリエーションを広げていった(なんていうとコアなファンの方に怒られそう)という印象があります。

ただ、一貫して、AmedeoのアルバムにはAmedeoらしいフレーズが必ずあり、Amedeoらしいオーケストラ・アレンジがあり、けっきょくのところ、この人の基本的な音楽性はむかしから変わってないんだなと、そう思っているのですが……。

このデビューアルバムがリリースされたのは1973年。そのあとに兵役に行ってたかなんかで、活動期間にちょっとブランクがあるんですね。セカンド・アルバムの『Minghi』リリースは7年後の、1980年のことでした。このセカンド以降のアルバムはずいぶん前からすべてCD再発がされていたので、自分もおそらく全部持ってます(サントラ盤は除く)。そこから得た印象が、基本的な音楽性はむかしから変わってない、ということ。でも、このファースト・アルバムは、セカンド以降の彼の作品とは、ちょっと(かなり?)肌触りが違う気がするんですよ。

もちろん、彼らしい(いまと変わらない)フレーズはね、はしばしに聞こえます。中期以降はキーボードに完全に置き換わったオーケストレーションは、初期のころは生のストリングス・オーケストラを使っていますが、これもちゃんと入っています。声も、中期以降のえらく落ち着いた感じはありませんが、若いながらもほどよく落ち着いていて、Amedeoらしいです。

でもね、なんか違う。なにが違うんだろう?

楽器の音が悪いのは、しかたありませんね。ぼこぼこしたベースの音なんて、『Profondo rosso(Suspiria 2)』のサントラかよとか思っちゃいました。でも、同時代の他のアーティストのアルバムでは、もっときれいな音でベースが録音できてるんですよ。てことは、ちょっとは「狙い」があってこの音なのかな。フレーズもロックぽくてベンベンしてる。このあたりが違和感。

曲の持つ雰囲気が妙に明るい。セカンド以降も、1980年代のアルバムには明るい印象の曲がちらほら散見されますが、その明るさにも「ヨーロッパ的なもの」を感じるのに対し、このアルバムの明るさにはあまりヨーロッパを感じない。

そして、メロディ。細かなフレーズではいまと変わらないAmedeoらしさがあるんですが、トータルとしてのメロディが、こじんまりしてるんです。いや、ある種の壮大さをもったものではあるんですが、その壮大さの方向が、歴史の重みと陰影、情感にあふれるヨーロッパへ向かうのではなく、なんかアメリカっぽい軽さを感じてしまう。

ついでにいっちゃうと、曲調にばらつきがあって、アルバムとしての統一感に乏しい。ばらついたなかでも、とくにポップな曲、リズミックな曲のクオリティが低い。

なんて、悪口ばっかり書いちゃいましたが、けっして悪いアルバムじゃないんです。ただ、Amedeoの一連の作品とくらべると、デヴュー作だからか、彼の持つポテンシャルをきちんと表現できてないなという感じがするわけです。だからCD再発が最後になったのかな。

1970年代初頭っていうのはイタリアのポップ・ミュージック界に大きな動きや変化があった時代ですよね。そのなかでLucio Battisti(ルーチォ・バッティスティ)が出て、Fabrizio De Andre'(ファブリツィオ・デ・アンドレ)が出て、Claudio Baglioni(クラウディオ・バッリォーニ)もデビューして、若者たちによる新しい時代が始まろうとしてたわけです。

Amedeoのこのアルバムにも、そういった時代の流れのなかに生まれた「新しさ」を求める姿勢が見える気がするんですが、そこにまだ「迷い」もある感じ。他の、カンタウトーレ・イタリアーノを引っ張っていくことになるアーティストたちにくらべると、新しいものへの信念やパッションをストレートに表現することに、ちょっと抵抗があったのかな、と。そうするには、ちょっと心が成長しすぎていた、頭で考えすぎてしまった――少し「大人びて」いたのかな、と。そんな印象を受けるのでした。

悪いアルバムじゃないし、聴いていて気持ちのいい音楽ではあるし、イタリアン・ポップスのファンとして愛することのできる作品ではあります。でも、過去から現在までの、これだけたくさんのイタリアン・ポップス作品がCD化されているいま、このアルバムの持つ音楽的(音楽史的な、ではなくてね)な意味や需要は、やはり低いかなぁ。Amedeoのファンが、あるいはカンタウトーレ・イタリアーなのファンが、資料のひとつとして所有し愛聴するためのCD再発、という気がします。

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2004/06/01

ソロからバンドのヴォーカルへ

自分は日本の音楽ってほとんど聴かないので、日本のミュージック・シーンがどうなってるのか、ぜんぜん知らんのですけど、ソロ・シンガーとして一部に熱狂的なファンのいる椎名林檎さんが、今後はソロ活動を停止し、ロック・グループ「東京事変」のヴォーカリストとして活動していくんだそうだ。ふ~ん。

アナキンさんのBlogに、この件について、

「バンドからソロへの転向はよくあるが、その逆はというのは珍しい形ではあるけど、面白い形ですよね。普通はバンドで成功したから、それぞれの音楽を追求するためにソロに転向するって言うのが、通例ですからね。」

と書かれていたのだけど、自分らくらいの世代のポップス・ファンなら、きっとあの人の名前とあのグループの名前が即座に心に浮かんだに違いない。

菊池桃子、ロック・グループ「ラ・ムー」のヴォーカリストとして再デヴュー!

そんな日もあったのだよなぁ(遠い目)。東京事変がラ・ムーのようになって、いつの日か林檎さんのバイオグラフィから抹殺されるようなことのないよう祈る。

ちなみに、林檎さんの歌う「木綿のハンカチーフ」を聴いて、不覚にも涙してしまったことがある。

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2004/05/31

残念というよりがっかり

またやっちゃいましたね、佐藤琢磨。なんかもう、がっかりです。エンジンがブロウしたことがじゃないですよ。チャンスが目の前にあり、それをつかむことのできる可能性も高かったにもかかわらず、自爆ですべて台無しにしちゃう佐藤琢磨というドライヴァーに、もうがっかりなんです。

彼、速いのになぁ。なんで、あそこで、あそこまで無理する必要があったんだろう。たしかにタイヤのおいしいうち、ルーベンスよりもアドバンテージのあるうちに、さっさと抜いてしまいたい、抜けるはずだというのはあったんでしょうが、それにしてもあれは、むりくりすぎでしょ。

フェラーリに対しても一歩も引かず、積極的に抜きにかかる……てことで、地上波の放送では誉められていたけど、そうかぁ? フェラーリにも、ミハエル・シューマッハにも、躊躇することなく、チャンスがあれば仕掛ける、多少強引にでも抜きにかかる、といえばファン・パブロ・モントーヤもそうですが、ファン・パブロはちゃんと自分も相手も見えていて、そのうえで少ないチャンスを逃さない。でも琢磨君は、自分しか見えてない。自分も見えてない。

もしかして、頭が悪い? レースの組み立てができない?

なんかね、出来の悪いラルフ・シューマッハを見てるみたいですよ。速さはあるけど、見極めがヘタ、レース・マネジメントがヘタ。けっきょくは自分でクルマを壊して終わっちゃう。昨日も「(ルーベンスとの接触なしに)あのまま走ってたとしても、いずれエンジンはああなった(ブロウした)わけですから」みたいなこといってたけど、そうかぁ? ルーベンスとの接触とエンジン・ブロウにはまったく因果関係がないと言い切れるのか??

これまでは、勝手に自分で自爆するだけだったので、ほかのドライヴァーもおおめに見てくれていた(?)と思うのだけど、最近は他のクルマを巻き込む傾向が見えてきてる。昨日のルーベンスは大きなトラブルなくチェッカーまで走れたけど、琢磨のくだらない自爆に巻き込まれてリタイアなんてことになってたら、ミハエルもあんなやさしいコメントは出さないだろうし、チーム内の立場もどんどん悪くなるだろうな。

他のドライヴァーから「自分のクルマの前後に琢磨が見えたら気をつけろ! トラブルに巻き込まれるぞっ!!」なんて、ラルフみたいに呼ばれる日が来ないことを、ほんとに祈るよ。

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2004/05/30

えびボクサー

っていう映画、ありましたよね、少し前に。巨大なえびをボクサーに仕立てあげて、人間と戦わせるとかいう内容の。もう、タイトルからしてB級感いっぱいで、くらくらしちゃったのと、上映館が少なかったこともあって、観てないんですけど。しかし、すごいタイトルですよね、えびボクサー。

今日は恵比寿に『グッバイ・レーニン』を観にいってきたんですよ。なかなかじんわりくる映画で、時代の変化にいちばんついていけなかったのは、けっきょく息子だったのねぇなんてことを思ったんですが、それはそれとして。

上映前に、待合室で映画のパンフレットをいろいろ眺めてたんです。おもしろそうなものもあれば、くだらなそうなものもある。『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』(こんなタイトルだったか?)なんて、ちょっと引かれるものがあります。

そんな映画チラシのなかに、見つけてしまったのです! 驚愕の映画を!!

『いかレスラー』

脱力です。しかも、日本映画。超ふぬけです。特別友情出演に白石美帆。立ち上がれません。もちろん主役は、レスリングをする「いか」です。

そんなもん、つくるな! そんな映画に出るな、白石美帆!!

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