2020/03/22

ヘレディタリー/継承 Hereditary (2018)

最初はゴースト系のホラーかと思って観ていたが、最近となっては懐かしさを感じさせるサタニズム系オカルトホラーだった。オカルト系の作品は、個人的には好きなほうで、『オーメン』『ローズマリーの赤ちゃん』『サスペリア2 赤い深淵』などはいまでも名作だと思っているけれど、この映画はなんだかなぁ。展開は遅いし、じわじわと迫り来る得体の知れない恐怖もあまり感じないし、そうしたものの不足を補うような印象的な恐怖シーンや、登場人物に大きく感情移入できるような人物描写もないし。アメリカの評論家などからの評価は高かったらしいけれど、自分の印象としては往年のオカルト系名作には遠く及ばない、微妙なレベルの作品といった感じ。


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マスカレード・ホテル (2019)

飲食店やホテルといった「接客の現場」を舞台にした作品は個人的に好きなこともあり、この映画も楽しく観られた。最初の事件の容疑者のアリバイが、友人がその容疑者の自宅にかけた電話だけだというのに、かけた側の電話の通信記録も、受けたはずである容疑者の自宅電話の通話記録も、警察が取り寄せ確認をしていないというのはあまりにずさんではないか、そんな操作能力で連続殺人の捜査ができるのかとか、思うところはあるが、木村拓哉と長澤まさみが扮する主人公たちが、次々に登場する怪しげな宿泊客たちの「隠された事実」を見抜いていくオムニバス作品的な楽しみ方もできて、全体としておもしろかった。
ちなみに、木村拓哉の歩き方やお辞儀のしかた、待機時の手の位置などが、はみ出し刑事としての登場時はだらだらとしたものだったのに、潜入捜査が進むにつれてホテルマンらしいかっちりとしたものになっていき、捜査が終了し刑事に戻るとまた歩き方も揺れるようなものに戻るところに、ちゃんと考えて演技をしているのだなということが感じられ、好感を持った。

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2020/02/16

激走!5000キロ The Gumball Rally (1976)

違法な公道レースを題材にした映画はたくさんあるけれど、犯罪がらみとかではなく、交通ルールを破ること以外の違法行為が基本的にはない点がいい。
他の参加者よりも早くゴールするためのちょっとした企てはあったりするけれど、他者への悪意のある妨害工作がないところもいい。レースをする目的も、犯罪に関係していることもなく、大金のためでも名誉のためでもなく、ただ「クルマを速く走らせることが楽しいから」だけなところもいい。
大きな陰謀や事件のようなものもなく、ただクルマやバイクが激走しているだけなのに楽しい。
カワサキのバイクで参加するライダーはけっきょくひと言もしゃべらなかったように思うが、彼が走ってこけて跳んでつっこんでいるだけでおもしろい。
参加者はみんな、違法レースに参加し交通ルールも無視しまくる犯罪者ではあるのだけど、みんなナイスガイでかわいらしく、見終わったあとも気分がいい。
こういう単純で楽しい映画って、最近はあまりないように思う。



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2020/02/13

ヴイックスの説明文が、ちょっとなにを言っているのかよくわからない

風邪の治りかけで喉がいがいがして咳をしていたら、知人が「ヴイックス メディケイテッド ドロップ」5個入りのスティックを1つ、くれました。いわゆる「のど飴」などと違い、セチルピリジニウム塩化物水和物という薬剤を配合した指定医薬部外品なので、喉に対する効果も高そうですし、シュガーレスというところも好ましい。

用法としては「のど飴」などと同様に、スティックから「ヴイックス メディケイテッド ドロップ」を取り出して口の中に放り込めばいいのでしょうが、いわばお菓子である「のど飴」とは違い、いちおう指定医薬部外品なので、正しい効果を得るには正しく服用する必要があると思い、スティックに書かれた「用法・用量」を読みました。スティックには「用法・用量」として、次のように書かれていました。


大人(15才以上)及び5才以上の小児1回2個を1日3~6回1個ずつ2個までを口中に含み、かまずにゆっくり溶かして使用してください。2時間以上の間隔をおいて使用してください。※5才未満は使用しないでください。
(2020年2月時点)


う~んと、これ、ちょっとなにを言っているのかよくわからない。
分解しながら読み解いていきましょう。


大人(15才以上)及び5才以上の小児


まず、この時点でちょっと気づいたことがあります。「5才以上の小児」と「大人(15才以上)」という書き方をするということは、15歳未満は「小児」ということになるのですね。なんとなく、「小児」というと小学生(12歳)くらいまでの印象を持っていたのですが、中学生も小児なんだ。

少し調べてみたところ、厚生労働省のウェブサイトに「医療法施行規則第十六条に関する疑義について (昭和三一年五月一日 三一医第三七〇号)(厚生省医務局長あて長野県知事照会)」という文書がありました。1956年に長野県知事が厚生省(当時)医務局長あてに、「医療法施行規則第16条第1項第4号に規定される『小児』とは、具体的に何歳から何歳までを言うのか?」という問い合わせを行っています。

この問い合わせの文章に長野県知事は、参考として、児童福祉法第4条における分類、旅客及び荷物運送規則第9条における分類、さらに栗山博士なる人の学説を掲載しています。
それによると、児童福祉法では、1歳未満を「乳児」、満1歳から小学校に入るまでを「幼児」、小学生から満18歳までを「児童」と呼び、そもそも「小児」という分類はないようです。一方、旅客及び荷物運送規則では、1歳未満を「乳児」、満1歳から6歳未満を「幼児」と呼ぶのは児童福祉法とおおよそ同じですが、こちらには「小児」の区分があり、それは6歳から12歳未満となっています。
さらに、栗山博士なる人の学説では、「小児とは出生から春機発動期(思春期)までをいう。女児では、十四、五歳 男児では十六、七歳までをいう。」のだそうです。男の子のほうが「小児」の期間が長いのは、なんとなく納得できる気がしないでもない。。。

このように「小児」についての定義がいくつかあってよくわからないから、医療法施行規則では何歳から何歳までを「小児」と規定しているのか教えてくれという問い合わせを、当時の長野県知事さんが国に対して行ったわけですね。
それに対する厚生省の回答は次のようなものでした。


医療法施行規則第十六条第一項第四号に規定する「小児」とは通常小児科において診療を受ける者をいうのであって、具体的に何歳から何歳までと限定することは困難である。

(昭和三十一年五月二十一日 医収第一八六〇号)(長野県知事あて厚生省医務局長回答)
https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=00ta0783&dataType=1&pageNo=1


なんてざっくりした回答。「通常小児科において診療を受ける者」ってなんだよ。

では、実際に何歳くらいまで小児科で診療を受けるのか。調べてみると、これもいろいろでした。
日本小児科学会は「成人するまで」を小児科の診療対象としていますが、小児科医の多くは「小児科にかかるのは中学生くらいまで」と考えていて、内科医の多くは「小児科にかかるのは小学生くらいまで」と考えているらしいです。治療をする医者の側がこんな具合だからか、一般の人も自分の子どもは小児科に行くべきか内科に行くべきかで迷うことが少なくないようで、「小児科の受診年齢は何歳までか」といった記事がウェブ上にはたくさんありました。
なお、医療用医薬品の適応においては一般的に15歳未満を「小児」とするようです。

こういうふうに「小児」に対する明確な定義がなく、かつ、治療を施す側も立場によって「小児」の年齢範囲を違うように考えていて、患者側も「小児って、何歳までだよ?」と迷っているような状況において、「ヴイックス メディケイテッド ドロップ」の用法・用量を「大人(15才以上)及び5才以上の小児」とわざわざ分ける必要はあるのでしょうか。単純に「5歳以上1回●個(5歳未満は服用禁止)」でいいのではないかと思うのですが、どうですかね。

さて、ここまででわかったのは、「ヴイックス メディケイテッド ドロップ」を服用できるのは5歳以上の人である、ということです。
問題は、この先です。


1回2個を1日3~6回1個ずつ2個までを口中に含み、かまずにゆっくり溶かして使用してください。2時間以上の間隔をおいて使用してください。


この文章が、いちばんの混乱のもとだと思います。これも分解してみましょう。

まず、「1回2個」を「1日3~6回」、服用するのですね。ということは、1日に合計で6個~12個を服用するわけですね。
ところが、そのすぐあとに「1個ずつ2個までを口中に含み」って、どういうこと? 「1回2個」を服用するんじゃないの? それとも「1個」なの?? 「まで」ってなに???
さらに「2時間以上の間隔をおいて使用」って、1個を服用したら次の1個を服用するまでに2時間待たなくてはいけないの???? それってつまり、最大量の12個を服用するには24時間かかるってこと?????

読んでいて頭がくらくらしてきます。

いったいどういうことかと思って調べたところ、要するに、「いちどに2個を口の中に入れるな」ということのようです。1個を口に入れ、それが溶けたらもう1個を口に入れる。これを1日に3回~6回行うが、次の「回」を開始するまでには2時間以上の間隔をあける、というわけですね。

「ヴイックス メディケイテッド ドロップ」は、口の中で溶かすことで、喉を潤しながらドロップ内に配合された薬効成分を摂取できるようになっています。1回に必要な薬効成分量はドロップ2個で摂取できるようですが、「喉を潤す」という観点から考えると、ドロップがより長い時間、口の中にあるほうが効果的なようです。そのため、いちどに2個を口に入れるのではなく、1個ずつ口の中で溶かしてほしいということのようです。

ここで気になるのが「1個ずつ2個まで」という表現です。

「2個まで」という表現には「3個以上はだめ」という意味があります。調べたところ、最大個数に制限をつけているのは、それ以上を服用すると、消化系の弱い人はおなかをこわす可能性があるからだそうです。その意味で「2個まで」という記載があるわけです。その点については理解できました。

ただ、ここで別の疑問が生じます。「まで」という表現は、最大値しか示さないということです。つまり、「2個まで」という表現は、「2個が許される最大値であり、3個以上を服用してはだめ」ということは示しますが、2個より少なく服用することについては可否を規定していないのです。

もちろん、服用することを前提としたドロップについての文章ですから、0個でもOKということはないでしょう。また、「2個まで」の前には「1個ずつ」という文言もありますから、たとえば1個のドロップを半分に割って0.5個を服用するといったことも除外されると考えてよいでしょう。

こうしたことから、「1個ずつ2個まで」という文章が示す「1回あたりの服用量」は、「1個」もしくは「2個」ということになります。つまり、1回あたりの用量は「1個」でもいいし、「2個」でもいい、という意味になるのです。

あれあれ? これは困りました。
スティックに書かれた「用法・用量」は、その前の部分で「1回2個」と断言しています。なのに、その少しあとに「2個まで」、つまり「1個」でも「2個」でもいいという表記があります。
そして1日の服用回数は「1日3~6回」です。1回の服用量が「2個」で固定であれば、1日の服用量は6個~12個ですが、1回の服用量が「1個」でも「2個」でもいいとなると、1日の服用量は最少3個~最多12個となり、最少個数と最多個数にずいぶんと開きができてしまいます。

1回の服用量は「2個」で固定なのか、それとも「1個」でも「2個」でもいいのか。調べてみたのですが、「規定量より多く服用してはだめ」と書かれている記事はみつかったものの、「規定量より少なく服用してもいい」という記述はみつけられませんでした。そのため正解がわかりませんので、「2個で固定」の場合と「1個でも2個でもいい」場合との両方について、もとの文章を書きなおしてみましょう。


《1回量が2個で固定の場合の用法・用量例》

5歳以上、1回2個を1個ずつ口中に含み、かまずにゆっくり溶かして、1日3~6回使用してください(5歳未満は使用しないでください)。1回使用後は、次の使用までに2時間以上の間隔をおいてください。


《1回量が1個でも2個でもいい場合の用法・用量例》

5歳以上、1回2個までを1個ずつ口中に含み、かまずにゆっくり溶かして、1日3~6回使用してください(5歳未満は使用しないでください)。1回使用後は、次の使用までに2時間以上の間隔をおいてください。


どうでしょうか。スティックにもともと書かれていた「用法・用量」よりも、1回あたりの個数、使用のしかた、使用間隔が、わかりやすくなったのではないでしょうか。文字数ももとの文章とほとんど変わらない(少し短くなりました)ので、スティックの狭いスペースに書き切れないといったこともありません。

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2020/02/11

一文が長すぎることが気になる

私がまだ学生だった昭和の時代には、文章を読点(、)で区切りつつ延々とつなげ、なかなか句点(。)にたどり着かない「長い文」に出合うことは、それほど稀ではなかったように思います。小説などでも、一文が4行や5行に渡るような文章は、それほど珍しくはなかったのではないでしょうか。当時の書籍はいまよりも文字のサイズが小さく、1行の文字数も多かったので、現代の書籍の文字組みにすると、一文が6行とか7行とかになってしまうかもしれません。

しかし最近は、文字数の多い文章自体が好まれないこともあり、句点(。)で区切られた一文の長さも短めであることが主流です。感覚的には、一文が80字程度(四六判サイズの標準的な縦書きの書籍で2行程度)を超えると「長いよ」と感じるのではないでしょうか。

読みやすく、かつ、文法的にも論理的にも破綻やねじれなどがないようにして、長い一文を書くには、書き手にそれなりの執筆技術が必要ですし、たとえそうした一文が書けたとしても、その文を読むには、読み手にもそれなりの読解技術が要求されます。――と書いたこの一文が、ずいぶん長いですね。

特にビジネス系の書籍などの、解説や提案といった内容が主の書籍では、読み手にできるだけ誤解を与えないためにも、文章を簡潔明瞭にすることが求められます。

文章を読点(、)でつなげて一文を長くするよりも、句点(。)で区切って複数の文章に分けたほうが、たいていの場合は、読み手にとって読みやすく、理解しやすくなります。ビジネス系に限らず、最近では小説も、一文が短い傾向にあるようですね。いまは「一文は短く」が主流なのでしょう。

そんななかで、ひさしぶりに「大作」の一文に出合いました。


例としては昭和期の落語評論家の安藤鶴夫があり、安藤は新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥し、一方で古典落語界の権力者である人物はやはり評論で持ち上げ支援し、これにより昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした人物であるが、自身が嫌う落語家に対しては客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなどという嫌がらせにも近い行為を見せ、他方で5代目春風亭柳昇によれば、安藤は売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いしており、また、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が寄席の楽屋では立てられていたという。

ウィキペディア「評論家」最終更新 2019年5月13日 (月) 00:59
https://ja.wikipedia.org/wiki/評論家


すごい。およそ300文字程度が1つの文になっています。
これだけの情報量を、途中で区切ることなく一文で記述するのは、さぞかしたいへんだったでしょうと、その努力には敬服します。しかし、あえて一文でなければならない理由が、自分にはわかりません。


例としては昭和期の落語評論家の安藤鶴夫があり、安藤は新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥し……


ここ、自分なら確実に「落語評論家の安藤鶴夫がある。」でいったん文章を終わらせます。

ただ、元のウィキペディアの記事では、ここに抜き出した文章の前の部分で、ある種の権威を得た評論家が特定の人物や団体を激しく非難することで名を売るケース、および、業界内で実権を持つ特定の人物や団体を持ち上げることでそれらとの関係性を深め、自身の影響力を高めるケースについて言及しています。そして、ここに抜き出した文章は、そうした評論家の一例として安藤氏を出しています。その流れを考慮に入れれば、「安藤鶴夫があり、安藤は……」とつなげたくなる理由も、わからなくはありません。

しかし、その場合でも、「大きな影響力を及ぼした人物であるが、自身が嫌う落語家に対しては……」の部分は読点(、)を句点(。)に換え、文をいったん終わらせたほうがいいと考えます。そのうえで、重複部分のスリム化や読点の位置の調整などの整理すると、次のような感じになるでしょうか。


例としては昭和期の落語評論家の安藤鶴夫があり、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物はやはり評論で持ち上げ支援し、これにより昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。


これでも悪くはありませんが、やはり「安藤鶴夫があり、」でいったん区切ったほうが読みやすいでしょう。


例としては、昭和期の落語評論家の安藤鶴夫がいる。
安藤は、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物はやはり評論で持ち上げ支援し、これにより昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。


さて、このあとに続く「自身が嫌う落語家に……」以降の部分では、安藤氏が行ったことの具体的な説明が、やはり一文で記されています。しかし、この一文のなかには、安藤氏が行ったこととして、次の3つのことが書かれています。

(1)自身が嫌う落語家に対しては客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなどという嫌がらせにも近い行為を見せ、
(2)人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いしており、
(3)落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている

元の文は、ここの構造が少しばかり複雑というか、なかなか気持ちが悪い感じです。

まず、(1)と(2)を「他方で」という接続詞でつなげています。

「他方で」というのは、「Aという流れや物事がある一方で、Aとは別の方向に向かうBという別の流れや物事がある」ような状況のときに使う言葉です。「彼はビジネスシーンでは非常に合理的かつ冷静に振る舞う。他方で、プライベートの彼は義理人情を重視し、喜怒哀楽もわかりやすい」といったような感じでしょうか。

しかし元の文では、(1)の「嫌う落語家に対して嫌がらせ」と(2)の「人気がある落語家を毛嫌い」は、流れとしては同じ方向にあると考えられます。人気がある落語家を毛嫌いし、嫌う落語家に嫌がらせをするわけですから、(1)と(2)は同一線上にあると言えます。

同じ流れの上にあるものどうしを「他方で」でつなげるのは、文法的に非常に気持ちが悪いと感じます。
たとえば、「嫌う落語家に対しては嫌がらせをする。他方で、認める落語に対しては祝儀をはずむ」といったような流れであれば、「他方で」が正しく機能するのですけどね。

元の文をさらにわかりにくくしているのは、(2)の前におかれた「5代目春風亭柳昇によれば」という文言と、(2)と(3)をつなぐ「また、」という接続詞、そして文の最後におかれた「という旨の噂が寄席の楽屋では立てられていたという。」という文言の存在です。

「また、」には、

(a)その前後で文を「別のもの」として「区切る(分ける)」
(b)「また、」の前で書かれたことに、「また、」のあとに書かれる「別のこと」を「つけ加える」

の2種類の役割があります。そして元の文では、この「また、」が(a)(b)のどちらの意味で使われているのかがわかりません。

もし(a)だとすれば、(2)は5代目春風亭柳昇が自分の考えを述べたものであり、(3)は楽屋の噂話として伝わることを5代目春風亭柳昇が伝えたものです(元記事の注釈によれば、少なくとも(3)は5代目春風亭柳昇の著書から引いたもののようですが、(2)も同じ著書からとは断定できません。そのため、ここでは「ソースは別」と考えることにします)。ですから、次のように文を分けられます。


5代目春風亭柳昇によれば、安藤は売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いしていた。
また、安藤は、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が寄席の楽屋では立てられていたという。


もし(b)だとすれば、(2)も(3)も楽屋の噂話であり、そういう噂があると5代目春風亭柳昇が言った、ということになります。加えて、同じ文脈であるならば、「標的」とされる「特定の落語家」は、安藤氏が毛嫌いする「世間からもてはやされる落語家」のなかから選ばれているようにも思えます。そうしたことを明確にするには、次のように書き換えてみるとよさそうです。


5代目春風亭柳昇によれば、安藤は、売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いするだけでなく、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が、寄席の楽屋では立てられていたという。


どちらが正解かは、元の文だけからは読み取ることができません。筆者はどういうつもりで書いたのでしょうか。もしかしたら、筆者も正解がわからないため、どちらともとれるように、あえて曖昧に書いたのかもしれません。自分でオリジナルソースにあたって調べたり裏どりをしたりすることができない(あるいは、しない)ときに、書き手はこういう書き方で読者をごまかすことがあります。

まとめると、元の文は、内容的に「他方で、」でつなぐことはそぐわない(1)と(2)を「他方で、」でつないでいるから気持ちが悪く、(2)と(3)の出典(話の出元)が同じような違うような曖昧な書き方をしているから気持ちが悪く、文章としてのそうした未熟さを(1)~(3)までを複雑な構造の一文にすることでごまかそうとしているように自分には感じられるのです。
こうした気持ち悪さや曖昧さを解消するためにも、(1)~(3)の部分は、文を分けたほうがいいように思います。

これらをふまえて、もしも自分が担当編集者だったなら、おそらく次のような感じに文章整理および校正をするでしょう。

(2)と(3)の関係が(a)の場合:

例としては、昭和期の落語評論家である安藤鶴夫があげられる。
安藤は、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物に対しては、やはり評論で持ち上げ、支援することで、昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。
自身が嫌う落語家に対しては客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなど、嫌がらせにも近い行為をする安藤は、5代目春風亭柳昇によれば、売れて人気が上がり、世間から持て囃される落語家を毛嫌いしていた。
また、寄席の楽屋では、安藤は、落語評論の世界で名を上げ、落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が立てられていたという。


(2)と(3)の関係が(b)の場合:

例としては、昭和期の落語評論家である安藤鶴夫があげられる。
安藤は、新作落語を手がける落語家を評論という形で徹底的に攻撃・排斥する一方で、古典落語界の権力者である人物に対しては、やはり評論で持ち上げ、支援することで、昭和中期の落語界に大きな影響力を及ぼした。
安藤は、自身が嫌う落語家に対しては、客席で露骨に「鑑賞拒否」の態度を取るなど、嫌がらせにも近い行為をしていた。
さらに、5代目春風亭柳昇によれば、安藤は、売れて人気が上がり世間から持て囃される落語家を毛嫌いするだけでなく、落語評論の世界で名を上げ落語界への影響力を持つことを目的に、特定の落語家を標的に選んで計画的に喧嘩を仕掛けている、という旨の噂が、寄席の楽屋では立てられていたという。


う~ん、どちらの文章も、「観賞拒否などの嫌がらせ」について書かれた部分の日本語が、あまりこなれていない感じです。どうにかなりませんかね。

あと、先にも記したように、元のウィキペディアの記事では、ここに抜き出した部分の前に、特定の人物等を攻撃することで名を売るケースと、力のある特定の人物等を持ち上げることで自身の影響力を高めるケースがある、という説明があります。
また、抜き出した部分にも、安藤氏は新作落語を手がける落語家を攻撃する一方で、古典落語の権力者を持ち上げて自身の影響力を高めたと書かれています。
しかし、安藤氏が行ったことの具体的な説明については、嫌いな落語家に対する攻撃についてしか書かれていません。権力者を具体的にどういうふうに持ち上げたのかが書かれておらず、それもとても気持ちが悪いです。
「攻撃」と「持ち上げ」という2つのテーマを示したのだから、その両方のテーマについて具体的な内容の記述が欲しかったです。

いろいろともやもやが残りますねぇ。
そしてこのエントリ、長いよ。

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